ニース、ネグレスコのラウンジ

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「だが、ゴールドフィッシュさん。毒を飲んだとわかったとき、私は心から死にたくない、と思った。生きたいと思った。私は生きるために毒を飲んだのだ、死ぬためではない!神に祈り、朝食とコーヒー代の小銭をテーブルに置くと、カフェを飛び出した。すぐに身体が震え出した。毒のためか、それとも凍えるほどの寒さのためか。次第に呼吸が苦しくなった。はあはあと懸命に息をするが、そのたびに苦しさは増していく。そのうち身体がしびれて意識もぼんやりとしてきた」 「毒がまわってきた、と?」 「そのとき私はそう思った。何より手足が異常にしびれてまっすぐに歩けなかった。私はふらふらと車道に出てしまったらしい。朝早いモンマルトルの裏道だ。それまでは車一台走ってはいなかった。だが、突然、後ろでタイヤのスピンする音が鳴り響いた。今でもはっきりと覚えている。振り返ると、真っ赤なジャガーのEタイプ、ロードスターがまっすぐに私につっこんできた。そこで私の意識はなくなって記憶は途絶えてしまう。ジャガーEタイプ、世界一美しい危険な車。かつてボリス・ヴィアンはジャガーに乗って事故で死ぬのがスノッブだ、と歌った。あなたの国の車ですよ、ゴールドフィッシュさん」 「でも、結局あなたは助かった?」 「もちろん、だからこうしてあなたとブランデーを楽しんでいるのです。ひどい事故でした。あなたはお医者さまだからこういう話には慣れておいででしょうから、お話しましょう。運転していた若者は死亡、私は側頭部を強打して、頭蓋骨骨折、硬膜下血腫、下腿の複雑骨折と動脈からの出血、肋骨の骨折と内臓破裂。もちろん救急車で運ばれ、緊急手術を受けました。頭に穴を開けられて管を入れられ血を抜かれ、開腹手術、もちろん骨折の整復、身体中の血液が入れ替わるほどの輸血をされました」 「たいへんな事故だったのですね」 「そう、ふつうなら助からない。ところが、私が運び込まれたのは、その当時まだパリにも数台しかなかったCTスキャンを有するたいへん優秀な救急救命センターだった。すばらしいスタッフが懸命に処置をしてくれて、私の、こんな私のくずのような命を立派に救ってくれたのですよ」
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