ネグレスコ

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 ニースは決して大きな町ではない。ゆっくりと歩いたつもりでも、すぐに男はネグレスコに着いてしまった。  “ネグレスコ”、彼らの宿泊しているニースで最も有名なそのホテルは、街角にそびえていた。ドームを有する重厚な造りにもかかわらず、その外壁は全面ピンクに塗られている。男にはとても奇妙に感じられるのだが、妻と娘はおとぎの国のお城のようだと絶賛した。それでも、ゴシックとパンクを組み合わせ、グラムロックやヴィヴィアン・ウエストウッドを産んだイギリスを母国に持つ彼は、数日泊まるうちに、いつしか抵抗を感じなくなっていた。 「パリではありえないな」 南フランス贔屓(びいき)になりつつある彼はそう思うのだった。 「こんばんは、ゴールドフィッシュさま(グッドイブニング、ミスターゴールドフィッシュ)」 ドアマンが英語であいさつし、笑顔で迎えた。 「ボンソワール」 男はフランス語で答えた。 「ボンソワール、ムッシュ」 ドアマンは“金色の魚”という妙な名前を持つこの英国人客の口から初めてフランス語が発せられたことに少し驚いたようだった。  ロビーを抜けると、大きな広間があった。ドームから吊り下げられたおそろしく巨大なシャンデリアはロシア皇帝が発注したものでバカラ製だ。男はラウンジのソファーにゆったりと座り、新聞を広げた。以前は葉巻をくゆらせる部屋だったのであろうが、今ではここも禁煙らしい。注文したカルヴァドスに手を伸ばそうと新聞から目を離すと、一人の老人が立っていた。  老人、といっても年は六十後半くらいであろうか。やや小柄だが、肩幅はがっしりとしていた。紺色のセント・ジェームズのTシャツ、ゆったりと羽織ったベージュのリネンのジャケットがよく似合っていた。額は広く、白髪まじりだが濃い褐色の巻き髪が肩に届くほど長かった。一方で、銀色のヘミングウェイ風の髭はきちんと手入れされ、老人の顔立ちをさらに精悍に印象づけるには十分効果的であった。
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