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「若いころが元気で年をとると疲れる、そう思っていました」
「もちろん、そうともいえるでしょう。でも、若いころ、たとえば十代のころでも、疲れることはあったでしょう?ゴールドフィッシュさんのお年でも、すごく元気で仕事や生活に充実しているときもあるでしょう。今年四十なら、なおさら、一番働き盛りです。元気で、しかも疲れきっておられる。あなたと私の靴を見比べてごらんなさい」
ゴールドフィッシュ氏は、自分の埃だらけの靴先を見た。
「歩くから靴には埃が付く。でも磨けばまたぴかぴかになる。私の靴には埃はないが、革はもうこんなに薄っぺらでしわくちゃですよ。でも、もう以前のように速足で歩いたり走ったりしなくなったから、すり減ることも、磨かれて輝くこともない。これが老人の履いている靴です」
「私は疲れて見える、だけどそれは元気に働くからだ、そうおっしゃるのですね?」
「そう」
ゴールドフィッシュは老人の話しに妙に説得力を感じた。老人の語り口は穏やかだが心に入り込んでくるようだった。彼はまるでメフィストフェレスに出会ったファウストのように惹き込まれていた。
ほんの少し会話が途切れ静寂が訪れた。フランス人はこれを“天使が通った”という。ゴールドフィッシュは、悪魔でなく天使でよかった、そう思った。
「いや、失礼。少し説教じみた話しになってしまいました。お許しください」
ムッシューイグレックはすまなそうに謝った。
「とんでもない、とても面白く拝聴しています。私もこの休暇を、自分自身について考えるいい機会だと思っておりました。それに、会話に間ができることは、私の国ではよくあることです。世界中であなたの国くらいですよ。間断なくしゃべり続けて、間ができると天使のせいにするのは」
二人は笑った。
「あなたは話の分かる方のようです、ムッシューゴールドフィッシュ。ところで、あなたはどういうお仕事を?」
「内科医です。今は大学病院に勤務しています」
「ほう、お医者さまですか。それならば、ぜひ聞いていただきたい話があるのですが。かつて、私が今のあなたくらいの年だったころにしてしまった、命がけのとんでもない大間違いの話しです」
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