知らない夜

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軽い世間話の後で、浅間という名前が出てきた。養育里親として僕をしばらく引き取りたいと。そういった説明をされた。意味も、理由もよく分らなかったけど、僕は何でもいいと二つ返事をした。それから僕が居なくなると分った施設での僕への態度が少し変わった。皆、もう僕とは関係ないように過ごしていた。もともとこの施設に居なかったから、と自分に言い聞かせた。それでもどこか実らない行き所無い悲しみを抱えて過ごしていた。  それから一周したある日、僕はトツトツと窓ガラスにあたる雨の音で目を覚ました。外からの冷たい風と少しかび臭いにおいがした。時計の針は、まだ真っ直ぐに伸びていた。浅間が来るのは十時過ぎだったのだけれど、僕はなんでもないといった風に、とひたすらに天井を見上げていた。  けど本当のところは、僕はいったいどんなきもちだったのだろう。この時は里親なんていうわけの分らない人に連れて行かれることに、不安を抱えていたのかもしれない。それとも、もしかしたらすごくいい人で、お金持ちで、学校なんて行かなくても財産だけで一生を終えられるような生活がまっていたらと考えていた気もする。  実際、嫌だと思う心の片隅には、少しのやさしさにも似た期待もあるのかも知れなかった。でなければ、六時を指す時計を気にはしていなかったと思う。  雨の音を聞きながら、僕の心にも濡れた土のようなかび臭さが募っていった。それと同時に、いつの間にか忘れていた母の顔を思い浮かべていた。あの時は自分がこんなことになるなんて思っても居なかった。当たり前に居た母が居なくなるなんて。母は、僕のことをどう思うのだろうか。ひどくがっかりするのかもしれない。  確かそんな事を思い浮かべながら最後の時間を過ごしていた気がする。  そして十時頃、一台のタクシーが施設の前に止められた。強くなった雨が屋根をつたってコンクリートに激しく打ち付けられていた。滝のように鳴る水の音が、少し怖く感じた。  そしてついに、傘をさした老人がゆっくりと歩いてきた。僕は必死に無表情を取り繕った。けれど浅間さんが一歩近づくたびに、僕の呼吸もひとつ、大きくなった気がした。浅間さんが僕の目の前に立ち止まり、名前を呼ばれた時にはどうしてか、雨の音も、匂いも、自分が立っている場所も、よく分らなくなっていた。
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