本当の色

9/17
前へ
/39ページ
次へ
無理するなと三葉は言ったけれど、自然とタオルと着替えを手に取っていた。家を出て、坂を下り、商店街へ入る。アーケードのあるわりと大きな商店街だったが、夜の八時を過ぎた今はひっそりとしている。だからぼんやりと光るその店が自ずと目にはいった。誰が揮毫したものだろう、「佐々木酒店」という立派な木製の看板が掲げてある。酒瓶の並ぶ店内では高校生ぐらいの男の子が、レジをあけてなにやら難しそうな顔をしてお札を数えていた。黒い髪は綺麗に切り揃えられていて、真面目そうな印象だ。白くて細い首筋は青年になる直前の、独特の美しさがあった。小夜の視線の先にもまた、彼がいた。途端、彼が顔を上げる。と同時に小夜はふっと顔を正面へ向けた。さも、私は前しか見ていませんという風に。そういうことかと思った。 そこから右へ曲がり、細い路地に入るとすぐ目の前に銭湯は現れた。立派な唐破風の屋根がどんと構えており、夜に浮かぶその姿はたいへん幻想的だった。 「夢みたいや」 「ええ?」 小夜が首を傾げる。またポニーテールがぴょんと揺れた。 ・ 小夜が髪をほどくと、みかんみたいな、甘酸っぱい香りがした。銭湯には案外人がいて、すこし驚いた。シャツのボタンに手をかけて思う。人前で裸になるなんていつ以来だろう。思い出そうとして、嫌な記憶に思い当たりそうになって、やめた。 「やっぱり嫌け?戻る?」 そう言いつつも小夜はすっかり服を脱いでいた。 「いや大丈夫」 「じゃあ先はいっとるね」 ふふふと笑い、跳ねるように浴場へ向かう小夜の背中を見送ってから、上から順にボタンを外していった。 入ってみると存外銭湯というのは気持ちのいいところだった。顔は赤くなって、目は細くなって、ここは間違いなく日常なのだけど、みんな日常をどこかに置いてきたような緩んだ顔をしていた。だから銭湯は極楽なのかと、おおきな湯船に浸かりながら妙に納得していた。みんなしあわせそうだ。 「三音さん」 「なに」 「しあわせそうな顔しとる」 「俺も?」 「俺も」     
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加