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夕暮れを越えて
教授に誘われた。自分だけ。ついていくとその人の家だった。断るに断れなくて、ずるずると関係を続けた。けれどある日、身体を触られている時に言ってしまった。「気持ち悪い」と。次の日、大学へ行くと自分の居場所はなかった。そんな関係を周囲もよく思っていなかったから誰も助けてはくれなかった。それが兄ちゃんが大学を休んで、髪を染めて、旅に出た理由だった。
「あいつはあいつで、母親が連れてきた新しい父親に身体を触られとった。なんでもそれはあいつが小学生から中学生ぐらいの頃のことらしいが。じゃけあいつは自分を守るために髪切って、胸を抑えて、俺って言うようになった。全然意味なかったとは言うとった。結局、その人がそれをやめたのは、あいつの母親に現場おさえられたからじゃけ」
兄ちゃんは淡々と三音さんのことを語った。私はこめかみにふれた三音さんの指先を、思い出していた。
「俺は自分のこと知っとる人がおる世界から消えたいと思っとった。そしたら、胸の痛みも消えると思っとった。でも世界中のどこに行ってもそれは消えんかった。けどあいつの傷ついとる姿みとるときは、それが消えたんじゃ。それにあいつなら、生きるのが嫌になったとき、一緒に来てくれると思った」
「それ、三音さんに」
「言うとらん。でもなんとなく分かっとると思う」
「今もそんなこと、思っとるの」
「思っとらん」
「信じてええの」
「ええ」
ほんとうに信じていいのか、あと百万回きいても足りないと思った。だから私は言った。
「兄ちゃん、私、三音さんのこと好き」
そしてきいた。
「兄ちゃんはどうなんじゃ」
兄ちゃんの真剣な顔を、久しぶりにみた。
「好きじゃ」
私は安心した。それと同じぐらい、寂しかった。でもここで下を向いてはいけない。私は私ができることをしようと思った。
「明日、ちゃんとみとってよ」
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