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 私が『彼』について知っていることは、あまり多くはない。    名は本に、姿は写真に、声は彼が行った公衆演説に残っている。享年三十歳という、この時代においては早すぎる旅立ちをして舞台を去った偉人。生き様は何百もの文献に書き綴られ、世界中の子供たちは学び舎で彼についての話を聞くのだ。少なくともこの国では、『彼』のことを知らぬ者はいないだろう。  ただし、それはあくまでも記録だった。  本当の『彼』の姿、私にはそれがどうしても見えてこなかったのだ。勿論、『彼』についてを記録した文献の数々が誤りであるというつもりなどない。  しかし、それでもやはり、『彼』の素顔が見えなかった。或いはそれは『人間性』というものなのだろう。私は『彼』を知りたかった。  だから私は、こうして『彼』の生まれ故郷を訪れた。  それは同時に、私にとっての縁の地でもある。 ◆◆◆◆ 「アンタ、あの建物を知ってるかい?」  しゃがれた声で何処か誇らしげに、老人は私の質問に答えた。いや、答えたというのは適切ではない。老人は私の問いに対し、答えではなく問いで返してきたのだから。私の質問というのはつまりは『彼』についてだ。そんな私の問いを受け、老人から発せられた言葉は先に述べた通りだ。  老人が問いと共に指差した方角に目を向けると、そこには周囲の高層ビル群を見下ろすように高くそびえる一本の柱が存在していた。 「バベル…ですか?えぇ、世界有数の建造物ですから」  この国を代表する建造物である『バベル』と呼ばれる大型のタワー、この存在によって当時まだ発展途上だった国は、一気に先進国の仲間入りを果たした。天を貫くが如く伸びた塔はこの国の最先端にして最高の、そして最大の予算と人員を投入して完成。  『バベル』は、いわば技術の結晶体だ。期間にして三年、まさに総力を以て臨んだ事業と言える。 「皮肉なもんさ、あれだけの金と人間を使って建てた物がバベルだなんてな」 「天に決して届くことのない塔…でもそれは他の建物だって変わらないのではありませんか?」  天、いわゆる神に挑戦するために作られた塔は、しかし決してその領域に届くことはなかったという。様々な説が存在する物語だが、現代においてこのバベルの塔は、実現不可能な計画に対して比喩的に用いられている。
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