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 ゆっくりと山道を登りながら、数メートル先で自分を見つめている彼を、見上げた。  こうして少し先に行っては立ち止まり、追いついたと思ったらまた少し先まで行ってしまう。手を引いて、一緒に歩いてくれればいいのに。そう思いながら、額に薄ら滲む汗を拭った。  人前で手を繋ぐことを、彼はとても嫌がる。恥ずかしいのだ。そのくせ人がいる前で、平然と頭を撫でたりする。照れる基準は、いまだにわからない。 「運動不足じゃないか。こりゃ来年来れるかわからねえな」  いじわる、と言うと、楽しそうに声を上げて、彼は笑った。いたずらっ子の気質が今も抜けきっていない。彼は幼い頃からいつだってみんなの中心で、楽しそうに悪ふざけばかりしていた。  だけど、それで人を傷つけることは、絶対にしない。大人には怒られてばかりだったけれど、みんなが、彼を愛していた。  頑固で、少し捻くれていて、歯に衣着せない物言いをするくせに、肝心なことを黙っていたりする。  だけど面倒見が良く、優しくて、純粋な人なのだ。時折はっとするほど、物事を深く見通していることもある。  おっとりした性格の自分と、どうして気が合うのかわからないけれど、気付いたらいつも一緒にいた。物心ついた時から今まで、ずっとだ。隣に彼がいるということは、季節が巡るように、自然なことになっていた。  風が吹く。空を緑に覆う雑木林が揺れ、薄桃色の花弁が降ってきた。もう、すぐだ。坂の終わりを予感する。その向こうの、黒くしなやかな幹の先に咲き誇る、淡い桃色の花達を想った。  五年前の同じ日、この同じ場所で、プロポーズを受けた。ぶっきらぼうに目も合わさず、俺と一緒になってくれと、顔を赤らめながら、彼はそう言った。結婚しようとはっきり言わないところが、彼らしい。  その時のことを、今もはっきりと覚えている。  火照る顔を撫でる、涼やかな春風。真っ直ぐ凛と聳える、樹木の柔らかな香り。鳥達の声の文目。日の光が映え、白く淡く光る花。  人生で、一番嬉しかった日。 「お前、ちゃんと運動しろよ」  舞う桃色の吹雪を見上げながら、彼が手を伸ばしてきた。明日から少し走ろう。そう決めながら、その手を握った。少し躊躇いながら、大きな手が握り返ってくる。  四月の風はまだ肌寒い。だけど手の温もりが、心まで温めてくれた。
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