6. はじまりの鐘

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 大柄な男が息を切らして飛び込んできた。制止する声が後ろで響いているが、他に誰も入ってくることはない。冷えた空気をまとった男がレイの肩を強く掴んだ。 「俺が誰だか、わかるか?」  投げかけられた質問に呼吸を止める。  突然、記憶の奔流に飲みこまれた。目まぐるしく流れだす数字、それが文字、色、音、匂い……と次々に形を成していく。  壁に書かれた名前、温かいスープ、不揃いな雨、冷たい腕の感触、熱い体温――  身の内で急速に凪いだ記憶の海から、ひとつ、ふたつと浮かび上がってくる。 「ケント」  レイは男の名前を呼んだ。 「ああ、そうだ。俺はケントだ」  切れ長の目がやわらかく弧を描く。  自分の頬を伝うものが、涙だとわかった。  レイはもう、なにもかも理解した気になっていた。だが、自分がなぜ涙を流しているのかはわからなかった。  ケントが雫の跡を拭い、レイの身体を引き寄せる。 「俺があんたを守る。信じてくれ」  苦しいほどに抱きすくめられながら、レイは自分の未来を予測する。  複雑な確率論は不要だろう。すでに自分という存在を明確に認識できている。今この世界で導き出される解は、自分にとって決して良いものとは思えない。  それでも、信じてみたいと思った。何もかもをかなぐり捨てるようにレイのもとへと飛び込んできた、この男の言葉を。     
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