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工学部の校舎西側一階の教室が、散歩サークルの集合場所だった。
成井田は四時限目の授業を終えると、足早にそこへ向かう。他のサークルメンバーが集まり出す時間まで、三十分はある。その三十分が、成井田にとっては貴重な時間だった。
急いだせいで少し乱れた息を整えながら、教室入口の小窓から中を覗く。ショートカットの学生が一人、窓際の席に座ってスケッチブックに鉛筆を滑らせているのが見えた。橙の陽が射し込み、アッシュブラウン色の髪はきらきらと輝いていた。Tシャツの上に軽めのパーカーを羽織っただけの肩のラインは薄く、パッと見ただけでは男女の別がわからない。彼の容姿は、可愛い、という表現が似合った。サークル内でも、彼ーーさつきの容姿については、時々話題に上がる。大きな瞳に色白の肌、頬は少し赤みがさしていて、長めのショートカットと相まって、決して女装をしているわけでもないのに、黙っていたらボーイッシュな女子にも見えた。片平などは、時々それを揶揄して「うちのサークルの紅一点」と言うこともあった。
美形で成績も良いさつきは、色んな人から褒められ慣れていて、さぞやお高い自信家なのではないかと成井田は思っていた。しかし、実際のさつきは、極端な程に人見知りだった。「友達がいないから」「俺なんかに」「ごめん」が口癖で、いつも自信無さげに俯く。才能のある人なのに、必要以上に自分を卑下するのに違和感を覚えた。人馴れしていないさつきは、話し掛けたり、褒めたりするたび、小さい子供のように恥ずかしそうに笑った。
もっと、笑顔にさせてあげたい。この人の心を開いてあげたい。
成井田は、さつきの輝かしい才能とあどけなさのアンバランスに、急速に惹かれていった。
集中して鉛筆を動かしているさつきに、成井田は「おつかれさまです」と声を掛けて教室に入る。成井田に気付いて、さつきも同じように返して手を止めた。
「このエスキース、先輩が描いたんですか?」
スケッチブックを広げているさつきの元に来た成井田は、興奮気味に聞いた。
3Hの鉛筆で薄く描かれたさつきの素描は、建物と、周辺に配置された植栽が斜め上からパノラマで描かれていた。
「うん。設計の課題なんだ」
「“オリンピック跡地を利用した魅力あるアクティビティの拠点”……新国立競技場周辺ですね」
挟まっていた課題プリントを読んで、成井田は再びじっとスケッチブックを見つめる。大会が終了した跡地を、開催後も人が集まり憩う、魅力ある空間として再生させる案を考えるという課題だった。
既存の樹木をなるべく活かした建物配置に、間伐材を寄せ木細工のように組み合わせた和風の木造のアプローチ。メインとなる競技場は、鉄とガラスと木を組み合わせた近未来的な、でもどこかメルヘンな印象の、不思議な魅力のあるさつきらしいデザインだと成井田は思った。
成井田は熱心にスケッチブックに目を落としたまま、しばらく押し黙る。
沈黙に耐えきれず、さつきは図面ケースの留め具を弄りながら口を開いた。
「俺、設計は苦手なんだ」
「え?」
こんなに個性のあるデザインを生み出せて、課題をこなして高い評価を受けているのに、苦手とはどういう意味か。意外な告白に、成井田はさつきの顔を見つめる。
「人に見られて評価されるのが恥ずかしくて。講評の時間とか、いつも逃げ出したくなる」
赤く染めた頬を手で隠しながら、さつきは恥ずかしそうに下を向いて呟く。アッシュブラウンの長めの前髪の下で、潤んだ瞳が自信なさげに揺れた。
友人を作るのが苦手だというさつきは、誰かと話しながら自分の案をまとめたことがないのかもしれない、と成井田は思った。
成井田が課題を提出する前には、同じ学年の友人と、今回の課題はこうしたとか、その案いいね、とか雑談する。自分一人で作っていると、独り善がりのものが出来上がりやすいからだ。自分では最高だと思って制作しても、友人に見せると笑われたりすることは、多々ある。提出前に友人に指摘されることで軌道修正もできるし、時間が無くてそのまま提出する場合も、講師たちからの辛辣な評価に備えることが出来る。
一方、いつも誰とも相談せずに一人だけで課題を仕上げて提出しているさつきは、友人とのやり取りの過程がないので、不安になるのかもしれない。
それなら、同じ講義を受けている同学年の友人を作ったらいいのではないか。
成井田は、一学年上の同じ学科の友人を、さつき以外に数人知っていた。その数人を紹介してやれば、不安は減るかもしれない。
さつきに対して、最初は付き合いにくそうな印象を持つかもしれないが、話せばシャイなだけだと解る。きっと真面目なグループの友人を紹介すれば、仲良くなれるだろう。
「それなら俺、友達が……」
しかし、成井田は言いかけてやめた。頭の中に、自分以外の人間と仲良く会話するさつきのイメージが浮かんだからだった。
「……?」
次の言葉を待って、さつきは少しだけ上向いて成井田を窺う。
成井田は軽く息を吐くと、笑顔を作ってさつきに向いた。
「講評の時って緊張しますよね」
設計の授業では、課題の作品を教室に並べると一度学生は退出し、その間に講師たちが評価をする。小さなコンペのような方式で、その評価が成績に反映される。講師の評価が終わると学生は再び教室に呼ばれ、作品ごとに付けられた評価について、講評される。作品自体に直接、AからCまでのスタンプを押されるので、自分の作品がどう評価されたのか、他の学生にもわかってしまう。その時、教室の空気は、一気に張りつめる。
「俺は単純なんで、全力で作ったものが評価されると、よっしゃってなりますし、逆に扱き下ろされるとへこみますし、いい評価された奴の作品を見て、俺の方が良いもの作ってるのにって嫉妬することもあります。でも、評価って、価値があるって認められることなんですよね」
成井田は俯いたままのさつきの、長い睫毛を見ながらなるべく普段通り、明るく言った。
「それって、好きだって、告白してもらえるようなものでもあると思うんです」
「告白……」
伏せられていたさつきの目が、再び成井田の方を向いた。
「俺は、幸崎先輩のデザイン好きです」
存外にするりと出た言葉に、成井田自身驚いた。さつきの独創的な設計は、講師たちが高評価を付けるのも、もっともだと頷ける魅力がある。他とは違う特徴を出しながら、多くの人に受け入れられやすいものを作り出せるさつきは、特別な才能を持っている。今はまださつきに近付く人間は少ないようだが、この才能と容姿で、彼が人付き合いに臆病になっているだけだと解ったら、友達などすぐに出来るだろう。
ありがとう、と微笑むさつきに、成井田は罪悪感を抱えながら笑顔を向けた。
そして頭の中では、晴れない霧のような気持ちがぐるぐると渦を巻いた。
なぜ友人を紹介すると言えなかったのか。
先輩として尊敬しているのに、彼の交友関係を、なぜ狭めようとするのか?
自分以外に、彼の笑顔が向けられるのを、なぜ許せないのか。
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