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前期試験を一週間後に控えたある日、さつきは成井田からメッセージを受け取った。
「力学とドイツ語教えてもらえませんか」
さつきは、うまく教えられるか解らないからと断りのメッセージを瞬時に考えたが、中之島に言われたアドバイスを思い出して、自分でよかったら、と返事をした。緊張しながら送ったメッセージに、成井田からは犬が走り回って喜ぶアイコンと共に、ありがとうございます! と返事が来て、さつきはくすりと笑った。走り回る犬の顔が、一瞬成井田に似ていると思った。
講義が入っていない夕方に落ち合い、学校のカフェテリアで二人は教科書を開いた。
力学は昨年さつきが受講した時のプリントを中心に、語学は文法と冠詞の覚え方をそれぞれレクチャーすると、最後には成井田は感激した様子でさつきの両手を握って拝むように掲げた。
「ほんとに、ありがとうございます!」
「お、大げさだよ。……でも、役に立てたみたいでよかった」
握られた両手の力強さに、さつきの鼓動は速くなる。顔が火照るのを隠したいのに、成井田が手をなかなか離さないので、さつきは下を向くしかなかった。
「あ」
そのうち、成井田は何かを思い出した様子でさつきの両手を離すと、財布からチケットのようなものを取り出した。
「俺、高校の友達とバンド組んでて……あ、ジャンルはジャズとかポップスとか、色々なんですけど良かったら来てもらえませんか?」
「えっ……」
差し出されたのは、成井田のバンドのライブチケットだった。思わず受け取ったその紙に印字された文字を、さつきはじっと読み込もうと見つめる。
「えっと、もし予定が空いてたらでいいんですが! チケット余ってて、だから……どうしたんですか?」
成井田が照れくさそうに説明していると、チケットを見つめていたさつきの瞳からぽたぽたと水滴がこぼれだした。
「え、あ、ご、ごめん……」
さつきは自分でも驚きながら、慌ててパーカーの袖で目元を拭う。
「あの、すいません。迷惑だったら全然、いいんで……ライブハウスはうるさいから、もしかしたら先輩苦手かも……」
「ううん、ごめん、俺、友達いなくて……こんな風に誘って貰えたの、初めてで……嬉しかっただけなんだ」
どぎまぎする成井田に、さつきは弾む気持ちを顔に出して微笑んだ。
「ナル、ありがとう。絶対に行くよ」
*
やっぱり苦手かも……。
試験期間が終わった後すぐの土曜日の夜に、成井田のライブがあった。
雑居ビルの地下入口でチケットを渡して入場すると、暗い室内は会話が困難な程大音量の洋楽がかかっていた。普段大きな音で音楽など聴かないさつきは、その音ですっかり怖じ気づいて隅の壁に一人くっついた。客は同年代の男女が半々くらいで、皆友人同士かカップルでグループになって集まっていた。一人で来ている人間は、さつきくらいのようだった。
開演まであと五分、という時間になって、会場内のBGMの音量が上げられた。さつきは大げさな程、肩をびくりと震わせる。しかし、持ってきたイヤーマフは首に下げたままにした。ステージの上が控えめに照らされて、成井田の姿が見えたからだった。
あ……。
会場BGMがブツリと切れた瞬間、再び照明が消えて真っ暗になる。そして、演者が所定の位置についたと思われる瞬間、生演奏が始まった。
すごい。
スローテンポの前奏が始まると、さつきは心臓のドキドキが全身に広がっていくのを感じていた。やがて曲調が変わり、徐々にアップテンポになると、ステージ上にスポットライトが当てられる。明るくなった瞬間、さつきの目には迷うことなく成井田の姿が飛び込んできた。ステージ上の仲間と目配せしながら、音楽を奏でる成井田は、とても生き生きとして見えた。
*
「先輩! 幸崎先輩!」
さつきは開演前から手に持ったまま、殆ど減っていなかったペリエを会場の端で飲んでいた。まだざわついている会場で、演奏を終えた成井田は目ざとくさつきを見つけたらしく、走り寄ってきた。
「来てくれてありがとうございます! これ、バンドのメンバーがお遊びで作ったグッズのマフラータオルです。良かったら受け取ってください」
成井田は感激した様子で、さつきの手にビニールに入ったピンク色のタオルを持たせた。
「ありがとう。こういうライブとか、初めてで……すごかったね。圧倒された、……かっこよかったよ」
心から楽しそうに演奏する成井田を見て、さつきは初めて心が動かされるという経験をした。成井田の演奏の最中は、いつもは不快に感じてしまう雑音も全く気にならず、さつきの心は音楽をすんなり受け止めることが出来た。演奏する成井田から目が離せず、僅かな動きで散る汗の一粒まで凝視するほど惹かれて、見入った。さつきは成井田のおかげで感じられた、この高揚した気持ちを伝えたいと思った。
「え」
「あっ、えっと、俺……感動しました……」
しかし、たどたどしく述べられた感想を聞いて、成井田は虚をつかれたような顔で固まった。さつきは、空気を読まずに興奮して話してしまったのだと自分が恥ずかしくなり、目を伏せる。
しかし成井田は「なんで敬語ですか!」と噴き出すと、優しい眼差しで笑った。
「ありがとうございます……! なんか……すっごく嬉しいです」
また失敗したと凍りかけたさつきの心が、ゆるりと蕩けた瞬間だった。
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