海辺なべいびー

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海辺なべいびー

何度も何度も着信を無視して、電車に飛び込んだ。 券売機で適当に押した知りもしない土地へ向かう、大きな箱。 今もまた響くバイブレーションは、きっと会社の同僚から。 私の様子がおかしかったことに気付いて、心配してくれているのだろう。 あぁ、私はなんて幸せ者なのだろう。 遠く離れてしまっていても、気にかけてくれる人がいるなんて。 けれど、本当に心配して欲しい人からは、音沙汰がないに決まっている。 あぁ、私はなんて不幸者なのだろう。 「…なんてね」 小さく呟いたその声に、近くに座っていた学生がちらりとこちらを見た。 しかし、携帯を弄っていた私を見て気のせいだと思ったのか、すぐに顔を戻した。 それを横目で確認してから、今度は小さく、本当にちいさく。 はぁ、とため息を吐いた。 カタンカタンと揺れた振動に、ほんの少しだけバランスを崩した。 ついでにコツンとドアで頭をぶつけて、なんだか散々だと笑ってしまった。 おだやかな昼下がり、ってやつだなぁ。 ドア窓から見た景色は、何度か見かけたことのある海へ続く道。 ポケットに入れた切符は、もちろん自分で選んで買ったもの。 何度目とない着信も、心配をしてくれる同僚もありはしない。 今日は仕事は休みで、心の内は誰にも見せてはいない。 まぁ、だからと言って自分が不幸だとも思わない。 仕事も充実しているし、趣味だって満喫している。 冒頭で思い描いたような小説のワンシーンなどあるわけないけれど、ほんの少し、面白いかな、なんて。 珍しく朝寝をして、目が覚めたら世間は正午が近い時間。 空いた小腹は、忍ばせてあったチョコレートでごまかして、最近で一番ラフな格好をしてここまでやってきた。 「あ、そろそろ着くよ」 隣の車両から移動してきたのか、ランドセルを背負った小学生が数人。 わいわいとドアの前に並び下車の準備をしている。 木々の並びを抜け一気に開けた視界に飛び込んだ、小さな駅と眩しい海岸沿い。 太陽はこれでもかと言うほどに照りつけ、水面までもきらきらと光らせた。 プシュー 開いたドアから、小さなこども達が旅立って行く。 私はその後をゆっくりと付いて行く。 都会とは打って変わって、少ない改札口。 そこから海へは、ほんのわずかな距離しかなかった。 「わー…まぶしいなぁ、世間は」 海辺には誰もいない。 それはそうだろう、海水浴の季節はとうに過ぎ、寒さが近付いてきているのだから。 とは言え、残暑がわずかに残る今日に限っては、いくらか涼しい場所であることは違いなかった。 「ふぅ…わーっ」 駅からいくらか離れ周囲を見渡して、ベタに海に向かって叫んでみた。 それでも近くを通りかかった人には聞こえてしまっただろうか、それでもいいのだ。 今の私にはそれぐらいの恥ずかしさよりも、 このなんとも言えない蟠りを捨ててしまうほうが先だった。 別に不幸だなんて思わない…思わない、けど… 恋…いや、きっと愛情に近かった。 そう思っていたのは私だけだったのかもしれない。 誰かに話せる関係ではなかったし、私が悪いことも知っている。 あの人がどんな気持ちで、いや、こうなることを分かっていて、誕生日に残業をしていた寂しい私に大きな花束を届けに来たとしても。 煙草が苦手な私に遠慮して傍では吸わずにいてくれたとしても。 落ち込んだ日には決まって同じチョコレートで励ましてくれたとしても。 それでも全部、私が悪いのだ。 自分以上に大切な人を、人たちを持っていたあの人に、惹かれてしまった私が。 「ばっきゃろーい」 なんて建前はいくらでもあるわけで、本当は責めてしまいたい。 家に押し入って全部ぜんぶ壊してしまいたい。 それが叶わないならば、せめて電話のひとつでも寄越してはくれないだろうか。 もちろんそれがないことも知っている。 なぜなら昨晩をもって、数年続いた私たちの関係は終わりを迎えたのだから。 もう一人増えるというあの人の家族に、私は勝てなかった。 叫んだと同時に一気に駆け巡った感情でやっとやっと、涙が零れた。 歳を取ると涙を流すことさえ容易ではなくなっていたのだと。 今になってやっと気付くほど、私は長くながく、愛という名の恋をしていた。 「あぁ、もう…ばかやろう。私の、ばかやろー…」 最後にと縋ったベッドの上、どこまでもあの人は優しかった。 私が寝たあとに吸うのだろう、朝起きたときにわずかに感じた煙草の残り香。 それさえも愛しくて仕方がなかったと、告げるよりも先にあの人はいなくなっていた。 今朝はもう、その香りさえ残っていなかったけれど。 まだ、まだ…私はこんなにもあの人が好きなのだと。 振られた、捨てられた、切られた今でさえも、私はこのままだ。 ザザーン、ザザーン 波の音が心地いい、それでもまだ、心は痛い。 履いていたミュールを脱ぎ捨てて、波打ち際に歩み寄る。 人魚姫はいいものだ、水に入ればぶくぶくと楽になれる。 けれど現世ではそうはいかない、人ひとりいなくなればそれだけで大事件。 彼を刺すことも泡になることも叶わないなんて、なんとも世知辛い。 傷ついても苦しんでも、生きていかなくてはならないのだ。 また明日、何もなかったかのように笑い、社会に繰り出す。 ただ、まだそれだけの力はないのです、神様 だからせめて今は、現実逃避だと。 ひんやりとした海水が足を撫でた。 「…いっ」 数歩進んだところで足に走った鈍い痛みと滲んだ赤い色で、怪我を負ったことに気付いた。 大方、小石かガラスで切ってしまったのだろう。 季節外れの海岸が完璧に整備されているわけもないかと、一気に現実に引き戻された気分だ。 水面から足を離してゆっくりと落ちる血液。 海水が沁みてじわりじわりと痛い、あぁもう、本当に痛い。 一時だってもう夢は見れないだろうし、明日は逃がしてくれない。 ぼんやりと見上げた空にはひとつだけ、白い雲。 もうひとつだけ、涙が零れた。 「うっわ、痛いなぁ」 「えっ、ぎゃっ」 声に驚いて片足を海水に突っ込んでまた沁みた。 先ほどより痛くなかったがそれでも非日常的な感覚に声を上げ、ついでに。 ばしゃーん 「うっわぁ…ほんと」 イタいなぁ… 心底残念そうな声を聞いたときにはもう、私は思い切り臀部から海に沈んでいた。 「あー…もー」 「…」 「なに、なんですか。こっち見てんじゃないわよ」 「いやもう、悲惨だなぁって」 「はぁっ。こうなったのは誰の、あぁ…はぁ」 「誰の、続きは」 けたけたと笑って近付いた声の主は、私よりずっと若く見える。 正しくは、電車の中で見かけた学生の男の子。 制服姿にヘッドフォンという、何とも今時な姿だった。 彼は鞄を離れたところに放り投げて、スニーカーのまま波打ち際へやってきた。 「なにやってんだろ、ほんと。惨めだなぁ、私」 「ほんとほんと、失恋してストレス発散に来て、挙句に怪我して水浸しとか笑えないよね」 「な、なんで失恋だって」 「おっ、まさかと思ったけど、まじ」 「こんのくそガキっ」 一体いくつ年下なのか、こんなこどもにカマをかけられるなんて。 何度目とないため息を吐いて、手を付いた。 「て言うか、アンタだれ」 「いやぁ、なんか黄昏てるお姉さんがいるなぁって思って。見てたら叫ぶし喚くし面白くて」 「喚いてはいませんけど」 「そんなことより、あーあー、その足、どうにかしないと」 「いいよ別に、見た目ほど大したことないし」 「なーに言ってんの、だめだよ。仮にも女の子、傷物になったら将来困るじゃん」 ね、なんて、屈託のない笑顔で言われて不覚にも。 こんな言葉が融けてしまうほど、私は弱っていたのだろう。 彼の笑顔に惹かれ、思わず吹き出してしまった。 その姿を見た彼は、さらに口角を上げた。 「こんなこどもに励まされてんのかよ、バカだなぁ」 「いいじゃん、大人にだって色々あるのよ」 「大人って、その姿で」 「童心に返りたいときもあるんですー」 「おっきくなったりちっさくなったり、便利だなぁ」 揚げ足取りの少年の髪は明るくて、潮風にふわりと揺れる。 海に反射した光で、ワントーンさらに明るく見えるのだろう。 思わず手を伸ばした私は、彼の頭を撫でていた。 「…はい」 「いや、えっと…うん、ありがとう」 「…いや、いやいや。それは、さ」 「なに」 「それはずるいよアンタ」 「ちょっと」 俯いたのも一瞬、彼は立ち上がって私を引き上げた。 そのまま自分の鞄の傍に連れて行き、せかせかと傷の手当を始めた。 「え、なにきみ、女子力高いのね」 「アンタがずぼらなの、財布も持ってないじゃん」 「ポッケに少しはあるわよ。社会人なめんな」 「まったく、からかって帰ろうと思ったのに」 タオルで足を拭いて、そのうえ絆創膏まで持っていた姿に、さすがに笑った。 見かけによらずしっかりした子なのだと、少し見直して。 ザザーンと響く海を見たら「よし」と声が聞こえた。 「じゃ、はい」 「…はい」 「はい、じゃなくて治療代」 「あぁ、はいはい」 手際よく済ました足の処置、傷口には二枚の絆創膏。 感心したのも束の間のこと、見直した数秒前の自分を少し呪った。 なぜなら彼は手のひらを見せ、こちらに差し出したのだから。 私はやれやれと、幸い濡れずにいたポケットから千円札を取り出した。 「はい、これでいい。そんなに持ってきて」 「はぁ、こんなんいらんし」 「え、治療費って」 「だーかーら」 差し出すのは、こっちでしょ。 そう言ってまた、彼に腕を引かれた。 自分が求めていたのはそんなものではないと言わんばかりに、お札を押し返して。 「治療してあげたんだから、お礼に付き合ってよ」 「付き合うって、どこに」 「なんもねー町だけど、なんもないからこそ楽しめるもんがあんの。だから」 行こうよ。 愛だの恋だの、失恋だの。 泣きぐずっていた私はもう、砂に消えた。 そしてやがて旅立つのだろう、この大海原へ。 いつかはまだ、いつか。 すぐには癒えないこの傷は、心なのか足なのか。 手を引かれ立ち上がった私は、強くなれたのだろうか。 ばいばい…さようなら それでも幸せだったのだ、いつかは終わるものだとしても。 だからどうかどうか、せめてやさしい世界にたゆたうように。 淡い光の中であなただけが知っていて。 惨めでも無意味でも、バカでも。 必死に誰かを思うことが出来た私のことを。 「んーっ、神様」 「うわっ。ちょっともう、いきなり大声出さないでよ。ほんと情緒不安定」 「あはは」 誰かを想えるかもしれない、私のことを。 覚えていては、くれないでしょうか。
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