涼やかな朝、髪をおろした

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涼やかな朝、髪をおろした

朝 いつものように鏡の前で髪をひとつに 束ねようとしてた手を止めた 今日は涼やかだから髪をおろしていこう おろした髪に似合う揺れるピンクゴールドの ピアスをつけて家を出た 外はやっぱり涼やかで 風がしっとりと私の身体をすり抜けて 空へ向かっていった 通勤電車に乗り込むのも夏より 嫌じゃないのはきっと 少しだけ冷たくなった空気のせいだね 会社の最寄り駅で降りて 近くのカフェでランチ用のパンを選ぶ マロンデニッシュ スウィートなポテトパイ パンプキンのお化けなカップケーキ いつのまにかメニューが秋色に染まってる ああ夏はもう終わったんだな あの人との仲も変わらずに過ぎたな そんなふうに 恋する先輩社員のことを思いながら ひとつだけ残ったスウィートポテトパイを買う 温かいキャラメルラテも買って 入り口を出て一口啜った 目の前を通り過ぎた女性が ベロアの長袖ブラウスを着ていて また秋を感じた この秋を過ぎたら冬が来るのか 冬が来たらまたあの店のメニューも変わって 色とりどりのイルミネーションが飾られて 会社までの道をきっと彩る いつもそれを一人で帰りながら見るけれど 今年のは先輩と見れたならいいんだけど なんて交差点を渡りながら思う 渡りきった時、誰かに声をかけられた 振り向いたら先輩がいた 胸が疼いて危うくラテを溢しそうになる 「おはよ」 落ち着いた声と真っ直ぐに私を見て微笑む先輩はいつも余裕の表情で 私ばかりがあたふたしてる気がする 「人違いじゃなくて良かった」 「え?」 きょとんとした私に先輩は涼やかに熟れた目を細めて微笑む 「佐伯さん、髪、おろしてるから」 「あ…はい。涼しくなったからおろしてもいいかなって思って」 「ちょっと印象変わるね」 「そ、そうですか?」 「うん、似合う」 じいっと見つめられてるのがわかるから 恥ずかしくなって並んで歩きながらも 先輩の方は見れない 暫く会社への道を無言で歩いて あとちょっとのところで 先輩は立ち止まってしまった 「先輩?」 「やっぱりこのままじゃいけないよな」 「え?」 先輩は私の手首を掴むと建物の影に連れていく 「あ、あの、先輩?」 先輩は振り返ると、私の髪に手を伸ばす え… 先輩の視線が私を捉えて、顔に熱が集まって、この状況はどういうこと…? 先輩は指先で髪を撫でるように一瞬触ると 手をおろした その指先には白い塊… も、もしかして、歯みがき粉?! 「可愛い」 顔が真っ赤になってしまう。 「まだ、ちゃんと落ちてないな」 先輩はそれからハンカチを出して 丁寧に拭きとってくれた 「よし、落ちたよ」 「すみませんっ、ありがとうございます」 「どういたしまして」 先輩は笑ってそれから、行こうか、って 歩き出そうとした 「あの!」 先輩が振り返る こんなに話せた機会あまり無いから伝えたい どうしても今、先輩に… 「今度ご飯でも、い、行きませんか?」 時が止まった気がした 息も止まるような気がした 恐る恐る顔をあげたら先輩の顔が私に近くなってきて、耳打ちされた 「いいよ。後で連絡先、メール送るね」 「は、はい!」 この恋がこの瞬間から一歩ずつ進んで 冬になっても 今手にしてるキャラメルラテみたいにまだ 温かな温度でいられたなら イルミネーションの輝く道を二人で帰れるような夜もあるといいなって思った にやけちゃうから先輩の背中を追いかけて 歩いてやがて着いた会社のエントランスの自動ドアをくぐり抜けたら 後ろから涼しい秋風が一気に吹きこんできて スカートを揺らした その風に背中を押されてる気がした 夏は終わってしまったけれど この秋がある この秋に この恋が 実るようにがんばろう私! そう思ったある9月半ばの 涼やかさに髪をおろした朝
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