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いつものように鍵盤に向かっているときのことだった。譜面台の横に置いたチェック柄のハンカチが悲しげな声で「またショパンなの。どうしてあなたはいつもショパンばかり弾いて、ラフマニノフなんかをバリバリと弾かないのかしら」といった。
「俺がラフマニノフなんぞ弾けるか。ああいった、人を馬鹿にする類の曲が好きだなんて、君はやっぱり、どうかしているよ。」
「あら、だっていつかのあなたはラフマニノフを一生懸命に練習して、私に最上の音楽を聴かせようと必死になってくれていたじゃない。」
ハンカチはずいぶんと前に三つ編みの女性からプレゼントされたものだった。彼女から受け取ったとき、僕の頬はきっと赤くなっていて、言葉もしどろもどろになっていて、もっと色々と言葉を交わしたはずなのに、「頑張ってね」と言われたことしか頭に残らなかった。
「どうして僕にこんな素敵な柄のハンカチ、プレゼントしてくれるの。」
一番聞きたかったことは聞けなかった。聞かなかった。
彼女のその後のことは友人から聞いている。いまは保険屋か何かの営業で生計を立てていて、つい最近、結婚して姓を変えたとのことだった。
「ラフマニノフには夢があるのよ。それに哀愁も。だから、あたし好きよ。」
「俺は彼の作品を演奏するのが嫌なんだ。第一、練習をいくらやったって11度を含む和音なんぞ一度に出せるわけがない。そんなに大きな手をもってやしないんだ、俺は。」
「いいじゃない、一度に出さなくても。崩して弾けばハープで奏でるように綺麗に響くじゃない。」
ハンカチの声は仄暗い炎を纏った。
「あのときのあなた、どうしても怯えているように見えたわ。目の前の出来事に恥ずかしがっているというより、その場にいる自分が不釣り合いだと思っているみたいだった。」
「そうさ。俺は俺が認められないんだ。」
「どうして気持ちを確かめなかったの。」
「俺が俺を認められないのに、どうして他人の気持ちに一生懸命になれるっていうんだ。俺があの当時、ラフマニノフをあんなに練習していたのは、弾けないものを弾こうとしている自分に滑稽な英雄心を抱いていただけさ。曲を弾き切ろうなんて、本心ではこれっぽっちも思っちゃいなかった。」
ハンカチは黙りこくり、僕はバラード第四番を奏で始めた。
長年の乾湿の変化で曲がった象牙がきらりと光った。
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