プロローグ

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 四月に入ったばかりだというのに、日差しが暖かい朝だった。着慣れないスーツの背中をお日様が押してくれているような気がする。  東京は朝の冷え込みが茨城ほどではないというだけのことなのに、上京したてで緊張しまくっていた私は、穏やかな天気でさえ自分の味方だと思いたかった。  会社近くのパン屋からは甘く香ばしい匂いがして、つい足を止めてしまう。ガラスの向こうには美味しそうなパンが何種類も並んでいた。  今日はお弁当を作ってきたけれど、寝坊した日はここでパンを買うのもいいかも。そんなことを考えながら出社した私は、柄にもなく浮かれていたのだと思う。  会議室で開かれた入社式で、今年の新入社員が私の他に男子が一人だけだと知って、一気に緊張が高まった。  小さな会社だから全社員合わせても五十人もいない。でも、その全員の目が私たち二人に注がれていると意識したら、頭がブルブル震え出した。  手が震えたことはあっても頭が震えたのは生まれて初めてで、自分でもどうしたらいいかわからない。  もう一人の新入社員である奈良橋くんが代表で挨拶している間も、私は震え続けていた。 「大丈夫だよ。君は名前を呼ばれたら返事をして立ち上がればいいだけだから」  後ろから男性社員がこっそり教えてくれたけれど、お礼を言うこともできなかった。  名前を呼ばれて上擦った声で返事をした私は、勢いよく立ち上がったせいで前のめりになり、社長の足元に倒れこんでしまった。  私はすぐに立ち上がって謝罪したけれど、社長は私の赤面した顔を見て「トマトみたいだね」と微笑んだ。  社長は私をフォローするように、「うちの会社はイタリア産のトマト缶を輸入するところから始まりました」と会社の沿革を話し始めた。  入社式ともあって、さすがに誰一人として私をあざ笑う人はいなかったけれど、期待に胸を膨らませていた私は意気消沈していた。  どうして私は人並外れて緊張しやすくてドジで赤面症なんだろう。  こんな私を優しい眼差しでそっと見守ってくれている人がいたなんて、その時は気づけるはずもなかった。
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