序章 地上に降りた雲 1.ソール

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序章 地上に降りた雲 1.ソール

 遠い水の底から呼ばれている。  声が聞こえたような気がして僕は深い青の海面をみつめる。ゆるやかに波立つ水は艶のある布を広げたようなドレープを描き、船を取り囲んでいる。夏の朝の太陽が青の中にさまざまな色を加えている。濃紺、藍、水色、光の反射のきらめき、そして緑。 「ソール」  耳もとで名前を呼ばれ、肘に手をかけられる。僕は水底の吸引力をふりきるように顔をあげる。  すぐそばで緑の眸が微笑みかけていた。その色を真正面からみつめたとたん、水の中から僕を呼んでいた――惹きつけていた何かは消えうせた。僕は垂れてくる髪をかきあげたが、するとたった今まで自分が感じていたのが何だったのか、すっかりわからなくなってしまった。 「クルト」  一瞬だけ緑の眸に気づかうような表情が浮かんだが、すぐに明るい微笑みにとってかわった。彼は治療師が着る薄灰色のローブの裾をたくしあげて腰に巻きつけている。太陽の光を透かした髪は部分的に金色がかってみえた。僕の肩に腕を回して舳先の方へ注意を向け「潜水士が上がってくる。気をつけて」といった。  僕はうなずいて上着の中に手をつっこみ、特製の眼鏡を取り出した。銀のふちに囲まれたレンズを通すと、世界はいたるところで虹色の影が二重写しになった光景へ変わった。この影をみつめつづけることはできない。ちらちらと揺れ動くからだ。  この世で生きとし生けるものすべてが持っている「魔力」が何らかの作用を働かせているとき、その力はレンズ越しに眺めることができる。過去のあやまちで魔力を喪失した僕も回路魔術の恩恵にあずかれば、多少は知覚できるのだ。  しかしたとえ目にみえても、この影は僕からとても遠いところにある。虹は船を歩くひとびとの周囲でふわふわゆらいでいるが、僕自身にはあまり意味をなさない。僕には使えないものだからだ。  魔力は魔術という方法で、生活の様々な場面で使われている。治療師のクルトが使う精霊魔術は、ひとの体内の損傷を癒したり、心だけで他の精霊魔術師と対話したり、魔力の少ない人間や動物を操ることもできる。場合によっては未来を予見することも不可能ではないが、精霊魔術は膨大な魔力とそれに見合った技術がなければ到底使いこなせない。  その一方、この船のなかで活発に働いている回路魔術は、魔力量がさして多くもないただの人(ただし僕を除くが)にも魔力を操作できる方法だ。この魔術は金属線で迷路のような経路を描くことで、微小な魔力を増幅させる「回路」を作る。適切に設計された回路は生活に役立つ便利な道具を生み出せる。  回路を設計するのは回路魔術師だが、彼らにとっては魔力量より設計の技量やセンスが重要だった。回路魔術師になるのも一筋縄ではいかないが、クルトのような精霊魔術師よりは出会うことが多い。  もっともこの船に回路魔術師は乗っていなかった。回路魔術の装置はいたるところにあって、たった今、水音を立てながら水面にあらわれた潜水士の服もこの魔術が補助している。僕が魔力を見るために眼鏡をかけたのは、慣れない場所で魔力に制御された機械に出会うと問題が起きかねないからだ。道でいきなりつまずいたり、ほかの人には見えているものが見えなかったり、魔力欠如の弊害はたくさんある。 「おーい、大丈夫か?」  甲板から水面に浮かぶ男に船から大声がかけられ、潜水士の親指が立てられた。水中に長時間潜るための装置を腰と背中にくくりつけたシルエットは、眼鏡を通すと水の中でも虹の影に覆われている。裸眼の僕には青い水のかたまりにしか見えなかった場所だ。クルトのような魔術師にはもっとはっきり、鮮やかに感じているにちがいない。  潜水士は船から投げられた浮き具にロープを結び付け、さらに浮き具に結びつけられたロープを甲板へ投げ上げた。水夫のひとりがすかさずロープをつかんで船にしっかりくくりつけている。男たちが寄ってきて歌がはじまった。荷揚げの歌、いや、漁の歌かもしれない。  リズムに合わせてロープが巻き上げられ、網が水面に浮かびあがる。太陽の光が斜めから差しこむが、網の中に魚の銀色の腹は見えない。もっと鈍く、暗い緑色に覆われたものがこの中には捕えられている。ふいに虹色のきらめきを感じたような気がして、僕は思わず眼を瞬かせる。ずっと海の底にあった人工の遺物に魔力が残っているなんてことがありうるだろうか?  生き物はもちろん魔力を持っている――多かれ少なかれ。魔力は生命に内在する力だから、病気や加齢で減ることはあっても、僕のようにほとんどが失われて、かつ生きつづけている例は稀だ。ひょっとしたら僕ひとりなのかもしれない。魔力を失ってからの僕は膨大な量の書物を読み記憶したが、同じような事例をみとめたことはない。  潜水士がまた水に潜っていった。船上の男たちは引き揚げた物品を海水で洗い、こびりついた汚れを落としている。ときおり魚や海底に棲む生き物が飛び出し、困惑したように甲板をうろついては、水夫につまみあげられて海に放りこまれた。  同じようなことを、もう三回。  繰り返し網を引き揚げ終わったときには、夏の太陽が中天に昇っている。網の中身は数百年前、火山の噴火で海底に沈んだ都市の遺物だった。 「今日はもういいだろう」  風がいくらか強くなったようだ。今回の発掘の提案者で指揮者でもあるレナードがそういい、船長に合図をした。船は島の方向へ動きはじめる。  船長のキャビンの陰でクルトが潜水士を診ていた。揺れる船上でもクルトの様子は落ち着いていて、年上の潜水士も素直に彼の言葉を聞いている。クルトが治療師になってどのくらいたつだろう。最初に出会ったときは学生だった。今だって十分若いけれど、僕と一緒に暮らす村でも働いている施療院でも先生と呼ばれて慕われる立場だ。 「ソール」  レナードの声が聞こえた。船長のキャビンの扉から手招きしている。クルトもレナードも故国では貴族階級の一員なのだが、いまはふたりともあまりそう感じさせない。キャビンに入ると外の光が一気に遮られた。そこらじゅうに漂う海の匂い、潮風や革やロープの匂いにまじって奇妙な匂いがした。金属、腐りかけた木、海藻、なにか古い、とても古いものの匂いだ。  キャビンにいたのはレナードひとりだった。船長は甲板で指示を出しているのだろう。レナードの日焼けした手が大きな箱に入れられた遺物を並びかえた。シャツの袖口にわずかに泥がついている。 「今日は『当たり』だそうだ。遺物は海底にまだあるらしい。これをどう思います?」  レナードがたずねた。  僕は箱にかがみこんだ。ざっと汚れを落とされた金属のレリーフ、陶器のかけらの鮮やかな模様をみつめると、過去に読んだ膨大な書物の記述が蘇ってくる。僕は忘れない。見たもの聞いたこと読んだ書物、それらを記憶し意識に蘇らせる能力は、魔力の欠如と同時に得た僕の貴重な特技だ。 「この陶器――噴火で沈んだ例の都市の産物なのは間違いありません。この青い陶器の紋……円と十字と鉤星の組み合わせ模様は当時の陶製ギルドのものです。でもこっちのレリーフはもっと古い時代でしょう。この地域では噴火や津波で古代何度も都市国家が起こっては滅んでいますが、アルベルトの研究によると、海流の関係でこのあたりの海底には一種の『溜まり』ができている可能性がある、とのことでした。今日発見した場所には複数の時代の遺物が層になっているのかもしれません」 「なるほど。だとすればずいぶんな幸運ですね」  レナードは貴族のくせに僕のような人間にも丁寧な口をきく。僕は学者ではないのだが、彼はそんな風に僕を遇するのだ。  ほんものの学者とはアルベルトのような人間だろう。アルベルトは僕とクルトが暮らす村の近くの岬で奇妙な隠遁生活を行っている老人で、今は海洋や気象の研究にのめりこんでいる。  レナードの指がさらに遺物を選り分け、僕はそれを見守りながら気がついたことを指摘した。これこそが今回の発掘に僕が誘われた理由のはずだった。 「これは?」  ふいに鈍く光る銀色の文字が僕の眼に飛びこんできた。  小指ほどの大きさの四角柱に文字が彫られているのだ。裏文字。一瞬そう思い、僕はまばたきする。裏文字じゃない。この形――これは活字だ。印刷に必要な金属活字だ。しかし……。 「これは――ほかの遺物よりずっと新しいもの……のように見えますが……」  僕は口ごもった。 「でもこの文字は――とても古くて……失われた……」 「ソール?」  急に気分が悪くなった。船酔いしたような気持ち悪さだ。それに妙な胸騒ぎがする。まるで呼ばれているような、ひきつけられるような。さっきも同じような感じを受けなかったか? そう、甲板から海をみていたときだ。  僕はおそるおそる指をのばした。金属に触れようとしたとたん「ソール?」と頭の上で声が響いた。はっとして指をひっこめ、顔を上げる。 「クルト」  クルトはたくしあげていたローブの裾を下ろしていた。かがむと麝香のような匂いが漂った。なじんだ香りに包まれると、さっきの胸騒ぎが消えていく。 「これが引き揚げられた遺物――ん?」  クルトは僕をみて眉をひそめた。 「ソール、大丈夫か? 顔色が悪い」 「少し酔ったのかもしれませんね」レナードが穏やかにいった。 「陸に上がってからゆっくり調べてください。船は明日も出します。まだまだこれからですよ。ハスケル君もよろしく」  僕は立ち上がろうとした。甲板へ出たかったのだ。しかしレナードとクルト双方にとめられて、結局キャビンの奥の椅子に座ることになった。レナードが出ていくとクルトは僕の前で上体をかがめる。彼に髪を撫でられるだけで僕のなかに安堵が満ちる。ひたいに軽くクルトの唇が落とされ、閉じたまぶたの上にも触れた。  僕はずいぶんクルトに頼りきりだ。ふとそんなことをふと思った。彼は僕より十歳も年下なのに、僕はこんなふうに助けられる生活にすっかり慣れてしまっている。クルトは僕のまえに膝をつくと、ズボンの裾をあげて足首に嵌めた輪に触れた。 「異常はないな。船酔いは俺だけかと思ったけど、ソールもかかるなら逆に安心だ」  僕は思わず笑った。体調のせいか天候のせいか、数日前に最初に船を出したとき、酔って吐いたのはクルトの方だったからだ。 「何がおかしい?」とクルトがたずねた。 「きみに船酔いは似合わないと思っただけだ」 「悪かったな。もう酔わないさ。コツはつかんだ」  キャビンの外で船長の声が響き、水夫がそれにこたえるのが聞こえた。抱きしめてくるクルトの肩に僕はそっと腕を回す。視界の先では遺物の箱がどっしりとその存在を主張していた。黒やさび色、緑青に変色した遺物たち、そのあいだに陶器の青が鮮やかに浮かぶ。ゆるやかに波立つ水のおもてが一瞬そこにちらついたような気がした。僕は眼を瞬かせた。  陶器は船をとりまく海の色をしている。静かで何も語らないが、底に何かをはらんでいるかのように青い。
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