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第1部 朝露を散らす者 5.季節という楕円
学院を出たのは夕暮れどきだったが、僕はまっすぐカリーの店に帰るかわりに、王城へまわっていくことにした。審判の塔に顔を出そうと思ったのだ。
ほんとうは今日、カリーの店でサージュが口にした「朝露を散らす者」という名前についてヴェイユにたずねるつもりだった。ところが話すタイミングを逃した上にクルトのことを聞いて動揺し、結局何も聞けずじまいだった。
とはいえ、知らないことについては人にたずねる前に自分で調べておくのが僕の流儀だ。ヴェイユには今日頼まれたことの報告をするときにいえばいい。そして犯罪集団について調べるのであれば最初に公式記録をあたるべきだ。
王国の記録のほとんどは審判の塔の地下書庫におさめられている。王都を離れる前の僕は書庫の常連だった。騎士団に頼まれた下調べや、塔の職員から依頼された記録整理のアルバイトでカリーの店の赤字を埋めていたせいだが、僕の「忘れない」能力は彼らにずいぶんと歓迎されたものだ。
実際、僕は王国でいちばん書庫に納められた文書の内容を記憶している人間かもしれない。それでも「朝露を散らす者」という名には思い当たることがなかった。書庫の記録量は膨大なのだ。ひとりの人間があれをすべて網羅することなどできるはずもない。だいたい、僕がこれまで読んだ文書は、騎士団や審判の塔がその折々で必要としたものだけだから、調べたことのない記録にこの名前が残っているかもしれない。
というわけで僕はひさしぶりに王城の石畳を踏んでいたが、そうしながらも書庫に入る名目をどうするかと考えをめぐらせていた。何しろ今の僕には騎士団からの依頼といった理由がない。閲覧させてもらえるだろうか?
王城は王都の中枢だ。中心には庭園にかこまれた王宮があり、その外側に王立魔術団の回廊、官吏たちが働く行政区画、騎士団の占める一角があり、さらに外側に回路魔術師団の塔、審判の塔、ギルドの建物、非常時に王都の民を養う備蓄庫と、庶民にもかかわりのある施設が置かれている。
全体を城壁にかこまれた構造で、上空からは薔薇のつぼみのようにみえるはずだ。王城全体は地下の基礎から城壁まで防備の回路魔術に覆われ、飛来する武器をはじきかえす。防備の回路魔術は王城だけでなく、王都の壁や舗道や地下の水路などを網目のように覆っている。
城壁ちかくの詰所にいる警備隊の騎士には知っている顔がいくつか見えた。歩きながらひとりに目礼すると「ソールじゃないか。ひさしぶりだな」と声をかけられる。僕は簡単に挨拶を返す。
騎士団には昔からの友人がひとりいるが、出世したおかげでいまの所属は王城警備隊ではないし、詰所にはみたことのない若い騎士もいた。けれど僕を覚えているひとはまだここにいるのだ。季節はめぐって、また戻ってくる。
今日はクルトも王城のどこかにいるはずだった。でも彼が呼び出されているのは王宮に近い区画にちがいなく、すれちがう見込みはなかった。僕は審判の塔の石段をのぼる。地下書庫の方向へ進みながらどう話したものか考えていると、通りかかった職員に目がとまった。
「ソール。王都に戻っていたんですね」
「アラン。おひさしぶりです」
アランは地下書庫の古参で、陽の光を忘れたような青白い肌の男だった。地下書庫の仕事は地味で、出世コースとはとてもいえない。そこで長年働いているのはアランが僕と同様に文字や書物を偏愛するからで、塔の上の方の連中は彼のような男を陰で物好きと呼びもする。でも審判の塔で僕が本当の友達と思っていたのはアランを含む数人だけだ。
「どうしたんですか?」
「調べたいことがあるんです。いまカリーの店に来ている買取依頼に盗品の疑いがあって、過去の記録に残っていないかを見たいんだ」
「なるほど」
アランはあっさりうなずいた。ヴェイユとさっき話した、学院図書室の蔵書の異変についてはうっかりしたことがいえないし、「朝露を散らす者」という名前を持ち出すのもなぜかためらわれた。だがカリーの店の入荷に関してなら昔似たような調査をさせてもらったことはあるし、騎士団からの依頼でも同様の案件を何度かやっているから、いいわけとしては妥当だろう。アランも納得したようだった。
「ついでにちょっと手伝ってもらえると助かりますが、どうです? 日が暮れるまで」
「もちろん」
「あなたがいないと大変なことも多くてね。古参の我々が何かというとあなたの名前を出すから、入ったばかりの若手でもソール・カリーを知っているくらいですよ」
彼は入場記録に僕の名前を自分で書き、目的に「書庫整理補助」と記した。
正面の階段を下りて地下一層へ進むと、そこは梯子と小階段と書架の迷路だ。回路魔術を使った熱くない明かりに照らされて、下の階層を見下ろす大きな吹き抜けのほかに、小階段のあいだにも小さな吹き抜けがいくつもある。幾何学図形で区分けされた壁はインデックスつきの書類で埋められている。中央には索引カードを収納した小棚がならび、吹き抜けからのぞく下層は崖か縦穴のように深くのびる。
僕は第一層の盗難事件の記録から探しはじめたが、これまでの事件記録に「朝露を散らす者」という個人や集団はみつからなかった。それにこの名前は印象的で詩的ないいまわしで、ただの窃盗団にはおよそ似合わない。サージュに聞いたときからひっかかっていたのはそこだった。古典の引用を疑ったが、僕の記憶に照らしても出典がわからない。
ふと僕はレナードの発掘で引き揚げられた遺物を連想した。これは偶然だろうか。
書庫の三層目、魔術文献の奥の一角へ足を向ける。人影はまったく見えないし、この先には立ち入り禁止の区画もあって、一般に公開されない記録――僕自身の記録の一部も――が保管されている。だが目的の棚はその手前だ。
ヴェイユもいったように古代文字の資料は少ない。レナードが夏にみつけた海底都市の遺物から新しい発見があればいいが、原典がみつかる望みはほぼなかった。
学院の図書館にある古代文字の文献は後世の対訳つきで、僕は熱心に勉強したものだ。だが古代文字に関する資料は別の場所にもある。それを知ったのは学院の最終学年のときだった。
塔の地下書庫第三層には、魔術に関わる王国の資料のうち、審判の塔が関係したものが集められている。古代文字は学者だけでなく魔術師も惹きつけてきた。理由のひとつは、回路魔術が発明される以前、精霊魔術の補助として「呪文」つまり文字を使う試みがあったせいだが、もうひとつの理由は特別な〈本〉にあった。
それは力の書とか、生きている本とか、道の本と呼ばれるたぐいのもので、この世の外にある巨大な力の源に接続できるといわれている。だが僕は知っている。――これらの〈本〉は実在するが、生きた人間が使いこなすには危険すぎる。だから王国はこのたぐいの〈本〉を禁書とし、管理していた。〈本〉は王国の起源にも関係するといわれている。
とはいえ人間の知識欲や好奇心はそんな禁止に負けないものだ。〈本〉を新しく作りたいという試みは、多くの精霊魔術師の心をとらえた。古代文字の研究がその一部をなしていた時代もあったのだ。回路魔術が発明され、魔力を扱う別の方法があると人々が気づくまで、その試みはつづけられた。
古代文字に象徴的な解釈をつけて暗号のように読み解こうと試みた、ある魔術師がいた。学生時代の僕は彼が殺されていたことを知り、その記録を探しにこの棚の前に立ったことがある。当時の僕は通りがかった職員に記録を読むのを中断させられたのだが、その前に見た一節はちゃんと覚えていた。今もこの区画を照らす光は同じ明るさで、僕は書架から引き出した紙片をめくる。同僚の魔術師の供述書にその言葉があった。
『彼らは早朝、朝露を散らしながらやってきた』
その先。僕は視線を走らせる。『彼らはいつもそうだ。朝露を散らす者』と言葉は続いた。
当時の犯罪集団か、それとも秘密結社のたぐいだろうか? だが書類は薄く、事件は未解決のままだ。
成果はこれだけだ。わかったのは「朝露を散らす者」という名前に由来があることだけ。僕はひきあげることにした。上にあがってアランに礼をいう。彼は破れた文書をつなぐ作業の途中で、僕は座って少し手伝った。
「また来てください。メリッサがおやつを持ってきます」と別れ際にアランがいう。
「ありがとう」
「ソールはしばらく王都に?」
「わからないけど、冬はずっといるかもしれない」
「だったら何度か会えますね」
僕はうなずいて、カリーの店に帰った。
書店の前の路地に入ると馬と革の匂いがした。警備隊かと思ったらたてがみに結ばれた緑が見えた。扉のそばに緑の上着の若者がいる。城下で早馬に乗れるのは警備隊と使者だけだ。嫌な感じがした。
「何かあったのか?」
声をかけるとふりむいて「ソール・カリーさん?」という。
「たったいま代理の方に渡しました」
「ソール」
店の中からクルトが呼んでいた。赤いしるしのついた書状に僕は眉をひそめる。使者が馬を引いて去ると店に入って鍵をかけた。クルトも帰ったばかりだという。
「たまたま俺が戻った時に来たんだ。ソールの村からだ」
僕はゆっくりと書状をひらいた。ほんとうは読みたくなかった――少なくともクルトの前では。彼には僕の両親について話していないことがたくさんある。だが赤いしるしとなると……。
書状の中身は簡潔だった。
『ソール、メイヤー・プラテックの容態が悪化しました。シェリーが戻ってきてほしいと頼んでいるので、私がこれを書いています。メイヤーはいつもの通り治療師を拒んでいます。早めに帰ってください。ネッタより』
僕は書状をたたんだ。
「ソール?」
「クルト、食事はどうする? 簡単なものしかないな……」
「そうじゃなくて、その手紙だ。緊急だろう? 急いで向かわないと」
僕は黙って奥へ行った。紙きれをテーブルに置いて湯を沸かそうとしていると、クルトが横に並んで立つ。
「メイヤー・プラテックって?」
「父だ。プラテックは僕の――勘当される前の姓でね。具合が悪いのは手紙で聞いている」
「それなら……」
「帰るともっと悪くなるかもしれない。父は僕が……」どう表現したものか。僕は迷った。
「僕のことがいろいろと気に入らなかった」
「だけど急報まで来たんじゃ、帰らないわけにはいかないだろう。ソールはどのくらい帰っていないんだ?」
どのくらい? 学院に入学して以来一度も帰ったことがないから、十七年ほどだろうか?
やかんから湯気が噴き出していた。ぼんやりみつめながら、故郷はあいかわらずだろうかと僕は考えた。軒にながいひさしが突き出している店の入口は取引の客たちがひっきりなしに出入りし、いつも馬と革の匂いがただよっている。土間に積まれた塩や穀物の袋の先で、おやじは大きな机に向かって帳簿をひろげている。ふと彼は顔をあげ、僕をみる。意識せずまっすぐ向けられた感情に僕はびくりと反応し、首を縮める。追い立てられるように身をひるがえし、僕は川のほとりまでまっすぐ走っていく。どこまでも、息が続くかぎり、視界の端に小さな家をみとめるまで。
「僕の父は――精霊魔術が嫌いでね」
クルトが火をとめた。僕をテーブルの方へ押しやって、やかんからポットに湯を注ぐ。
「そういう人はときどきいるさ。魔力が少ないと理解できないんだ。しかたない」
「父の嫌い方はけっこうなものでね。商売人だから外面はいいし普通の人にはわからないんだが、僕は物心ついた時から魔力が多かったから、彼の気分はよくわかった。よくわかったが……どう対処すればいいのか、わからなかった。父とはずっとそうなんだ。そして学院で例の事件を起こして、僕は正式に勘当された」
クルトはお茶をカップに注ぐと棚からブランデーの瓶を下ろした。
「でも向こうから連絡が来たんだろう? よほどのことじゃないのか」
「そうだとは思うが……治療師を拒んでいるというから、母やネッタが困っているんだろう」
「ネッタって?」
「従妹だ」
いつのまにか残り物と温めなおしたスープで食事のテーブルが整えられている。クルトは椅子を引いて突っ立っている僕の背中を押す。
「座れよ。俺も父に思うところはいろいろあるが、二度と会えないままになるのは良くないと思ってる。ソールだっていずれそう思うかもしれない。それに、俺も一緒に行く」
僕はのろのろと椅子に座った。
「でもクルト。きみは召喚されて王都に来たんだぞ」
「ソールをひとりで行かせるわけがないだろう? 俺は専属なんだ。それに、その偏屈で精霊魔術が大嫌いな父上に俺も会ってみたいし」
「きみは父を知らないんだ」
「そう、知らない。だからさ」
僕はパンをちぎり、スープに浸した。とてもクルトらしい言葉だった。彼なら父に臆さないにちがいない。この明るい精神の持ち主は。彼と一緒なら僕は耐えられるだろうか?
でも故郷は王都から近くはないし、どのくらい留守にすることになるか、見当もつかない。
だめだ。いまクルトは王都を離れるわけにいかないだろう。ヴェイユは「ローブの与えなおしなど前例がない」といった。つまり今回のクルトの召喚の目的は、魔術師としての彼の位階の再検討なのだ。
「帰るのは僕ひとりでいい。僕の実家のことできみに迷惑はかけられない」
意を決して僕はいった。帰ると口に出すだけで、喉の奥がひきつった。
「迷惑じゃないさ。当たり前の話だろ?」クルトはこともなげにいう。
「俺の召喚を気にしているならほっとけばいいさ。治療師が必要なら俺がやれるから、ちょうどいいし」
「でも……」
「なんだよ、ソールは俺と離れたいのか?」
クルトはパンをもぐもぐさせ、不明瞭な声で文句をいう。
「俺は嫌だからね。いくら守護の足環があるといっても、俺は正式に任命された――」
「そういえばヴェイユがセッキに会いに行けといっていた」
思い出して僕は彼の話をさえぎった。
「足環をみてもらえという話だ。王都を離れるのが僕ひとりにせよ」そこまででクルトの眉があがったのであわてて「きみも一緒にせよ」と続ける。
クルトの眼が表情豊かにまたたいた。彼は僕とちがって嫌な気分をひきずらないのだ。うらやましい長所だ。
「ああ、そうだな。俺も気になっていた。島での出来事もあったし、魔力も補給するべきだ。ヴェイユ師とは何の話を?」
「図書館の蔵書に不審な点があるそうだ。稀覯本の窃盗が計画されているのかもしれない」
僕はヴェイユから聞いた話をかいつまんで説明する。
「店の記録も調べなければならない。サージュも前に各地を移動する窃盗団の話をしていたし、偶然だろうが、気になることはある」
「サージュが何だって?」
「『朝露を散らす者』という集団があるらしい。稀覯本を盗む連中は各地を転々とするんだ。でもこの名前は僕も初耳だ。サージュは情報通だな。ときどき感心するよ」
「サージュね」
「ああ。アルベルトの著作を編集できるだけあって、知識も理解も深いが、それだけでもないようだ――クルト?」
「なんでもない。で、その『朝露を散らす者』って?」
「今日すこし調べてみたんだが、たいしたことはわからなかった。回路魔術以前の記録に出てくる名前が同じ集団をさすとも思えないからな」
クルトはうなずいたが、なんだか上の空のような気がした。いったい何を考えているのだろう。残念な気持ちが僕の心をよぎった。僕に魔力が――かつてのような魔力があったなら、クルトと念話で話ができるのに。親しい者同士で心と心を接触させるあの能力を取り戻せたら……。
いや、そんなことを考えるのは間違っている。僕は自分にいいきかせる。ずっと前もおなじことを考えて、僕は取り返しのつかない失敗をするところだった。それにクルトは僕のすぐ前、手が届くところにいる。それ以上を望む必要がどこにある?
「クルト」
「ん?」
「ブランデー、入れすぎじゃないか」
「好きなくせに。なくなったら俺が買う」
たしかにブランデーのおかげで僕の気分はすこし落ち着いたらしい。赤いしるしのついた書状が視界の端をかすめているが、今はあまり気にならない。
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