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第1部 朝露を散らす者 6.網をぬける魚
ソールが別の男の名前を口にするたびにいちいち嫉妬するのは馬鹿げている。
そんなことは百も承知なのに、ソールがサージュに言及するたびに苛立ってしまう。
そんな自分自身にクルトは困惑していた。どうしてあの男が気になるのだろう。
いや、気になる理由をあげることは簡単だ。岬に住む老学者アルベルトの元弟子で、港湾都市に店をかまえる書籍商と組む編集者。サージュについて確認できる事柄はそれしかない。さらにクルトがみるところ、あの男は相当な魔力の持ち主にもかかわらず、ふつうの人間にはそれとわからないように魔力の放散を抑えている。つまり魔術師に見えないように偽装しているともとれる。
試みたことはないが、もしクルトが彼の心を〈探査〉しようとしても、周到につくられた防壁に阻まれるのを予想できた。そんなことが可能なのは高度な精霊魔術の訓練を受けている魔術師だけである。
そう考えると、サージュはきわめて怪しげな人間だ。だがソールは彼のことを気に入っているようだし、クルトのように警戒もしていない。ソールが無防備にサージュの名前を口にするたびにクルトは落ちつかない気分になるのだが、ソールはクルトのそんな様子にも気づいていないようだ。
いや、今こんなことを考えたところで無駄というものだろう。
クルトは釈然としない思考を頭の片隅に押しやった。なにしろ空は美しく晴れているし、午前の光も風も爽やかで、ソールとならんで王都の通りを歩いているのだ。この状況を楽しむ方が先だ。
ふたりきりの空間を出たとたんソールはクルトと手もつなごうとしなくなるのだが、砂色の髪が陽の光にきらめいているのを見るだけでもクルトは嬉しかった。
「ソール」
「ん?」
「いい匂いがする。あの屋台」
「朝食は食べたじゃないか」
「寄りたい」
クルトがそういうとソールは顎に指をふれ、考えこむ仕草をする。王都の街路には回路魔術の装置がいたるところで作動している。ソールにとっては危険が多いので、今の彼は海辺の村ではめったに使わなかった眼鏡をかけている。魔力をソールにみえるようにするこの眼鏡は回路魔術の産物で、ふたりが向かっている師団の塔のセッキが作ったものだ。
わずかに頭を傾けて顎を触る恋人の癖がクルトは好きだった。砂色の髪のあいだで青と緑がちかりと光る。クルトが贈った髪留めだ。
「きみ、午後は王立魔術団に行くんだろう? 僕はヴェイユに話をしに行くから、その前に食事するとか……」
「王城に入ったら城下に戻るのは手間だ。まだ時間も早いし、セッキのところへ行っても待たされるだけだろう? ちょっとだけ」
クルトは彼の肘をつつき、屋台から垂れさがる青と白の旗を指さす。ベンチがいくつかならんで、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ソールは困ったように微笑み「しかたないな」とつぶやいた。
横並びに座って温かい飲み物をすすりながら、クルトはさりげない様子で肩をよせる。いつもの通りソールは静かな雰囲気で、昨夜の知らせに動揺した気配はもうみえない。
師団の塔の入口は大きく、暗色のローブをまとった回路魔術師や徒弟が闊歩している。いくつもの扉があけっぱなしで、早口で声高に話すのが聞こえてくる。王立魔術団の精霊魔術師とは対照的だ。念話を使う習慣のせいか、大声で話すのを下品だと考える精霊魔術師は多いが、ここではそんな風潮はない。
ソールは慣れた足取りで塔の階層をのぼっていった。セッキの研究室は広い部屋と隣り合わせた小さな部屋の二室だ。広い部屋の扉は開け放してあり、クルトには何に使うものか皆目見当がつかない装置が台に整然とならんでいる。しかしソールが扉を叩いた小さい部屋の方はというと――
「ああ、ソールか。クルトもよく来たな。入ってくれ」
大声で答える声に向かってソールは眉をしかめた。
「ひさしぶりだな。……いったいどこに入ればいいんだ?」
「あーそうか。無理だな」
セッキは扉の向こうからクルトとソールを交互に眺めた。
「うん。どう考えても厳しい。じゃあそっちだ。あーお茶! お茶をお願いしたい!」
四角い顎をした大男、セッキはところどころに白い筋のついた暗色のローブを手ではたきながら、隣の部屋に向かって怒鳴った。年齢はソールとあまり変わらないはずで、なのに回路魔術師としてはめったに出ない逸材という噂だが、ぼさっとした外見からはとてもそうはみえない。おまけに彼の私室、ソールが入るのをためらった部屋には積み上げられた物や紙が小山をなしていて、獣道のような細い通路の合間に長椅子が埋もれている状態である。
「ソールさん! それにおまけのクルトも、いらっしゃい」
隣の広い部屋の端からやはり回路魔術師のローブをまとったイーディが走り出て、満面の笑みをうかべた。ソールは嬉しそうに彼女の手を握り、クルトは「何がおまけだ」と苦笑いした。
学生時代にソールの店でアルバイトをしていた彼女は、クルトにとっては最初から反抗的な後輩だったが、ソールにいわせると「仲が良い」ということになるらしい。イーディもソールを尊敬して慕っているから、その点は認めてやってもいいとクルトは思う。学院では回路魔術を学ぶ者と精霊魔術師を目指す者の間に昔からちょっとした反目があったが、イーディのおかげでクルトはその手のくだらない伝統から逃れられた側面もある。
「セッキ師、お茶はすぐにできますから、あっちの応接にソールさんを案内してさしあげて」
「なんなら俺がお茶をいれようか?」
「いいです! いえ、だめです! 師は不器用ですから!」
「イーディ、せっかくだけどお茶はあとでいい」とソールがいった。
「飲んだばかりなんだ。元気そうだね」
「はい。忙しくてカリーの店に行けないのが残念ですが、元気です」
「ハミルトンがイーディの紹介した学生は信用できるといっていた。僕の仕事も楽だし、助かるよ」
「いえいえ!」
イーディは謙遜したが、眸は喜びで輝いている。子犬みたいだな、とクルトは思う。番犬というには小さすぎるが、声だけで敵を威嚇して追い払うくらいならできそうだ。一方で自分に向けられる表情と声は嫌味半分なのだが、これもいつもの挨拶のようなものだ。
「先輩もお元気そうで何よりです。ちゃんとソールさんのお世話してますよね?」
「当たり前だろう」
クルトは胸を張る。ふと横をみるとソールはそんなふたりの様子を嬉しそうに眺めている。
「なんだ、お茶はいいのか。じゃあさっそくやるか? とりあえずそいつをはずすぞ」
セッキが足元を指さしていった。ソールはうなずき、クルトはすかさず「俺が外します」といった。
向かい合って椅子に座り、靴下まで脱いだソールの左足をもちあげる。足首に銀色の環が嵌っている。表面も裏面も繊細な模様――回路で覆われている。クルトはソールの足首をもち、環に触れて継ぎ目をさがした。軽く魔力をあてると青い火花がパチリと散ったようにみえ、環はふたつに分かれてクルトの手に落ちた。
ソールに加えられた衝撃をはじき返して彼を護る、守護の足環だ。環にこめられた魔力の痕跡はいざというときのソールの目印ともなる。
「すこし調べる。貸してくれ」
足環を受け取ったセッキがならんだ機械の前にいく。イーディも立ち上がってセッキとならび、ソールは椅子の上で足首をさすっていた。
「大丈夫か?」
クルトがたずねると、ソールはなんでもないというように首をふる。
「ずっとつけているから、なくなるとおかしな感じだ」
クルトはソールの足首に手をのばし、ソールの手に自分の手のひらをかさねた。足の甲はソールの手首とおなじように細く骨ばって、繊細で美しい。暗がりでクルトは何度も同じ部分に触れているが、セッキの明るい研究室でみると、青白い肌色のせいか、ひどく脆く感じられる。
ふと研究室の片隅で魔力が膨張するように動いた。
「クルト、こっちに来てくれ」
セッキの声に近づいていくと、外したときには少しくすんでいた足環は銀の輝きを取り戻している。見ただけでクルトにはやるべきことがわかった。セッキにうながされるまま用意された椅子に座る。丸い台に嵌めこまれたそれに手をかざし、自分の魔力を注ぎこむ。
魔力とは本来、水を貯めるように保存できるものではない。つねに動きながら生まれつづけるものだからだ。しかし回路魔術はそこにいくつかの抜け穴をつくった。絡みあった長い回路をくぐらせることで魔力を維持し、物体に作用する力として使えるようにしているのだ。ソールの足環もそんな仕組みで、しかも特別製だった。クルトが魔力を注ぐと砂が水を吸うように呑みこんでいく。
「いい感じだな。もうしばらくがんばってくれ」
セッキは呑気な声でそういったが、イーディは目をみはっていた。彼女の前で自分の魔力を見せたことが一度もなかったのをクルトは思い出した。精霊魔術師には溢れる魔力の光輝をひけらかす者も多いが、魔力の自在な抑制を習得してからというもの、クルトは自分の力をさらけ出すのをやめていた。
環はクルトの魔力を吸いこんでいくが、これがクルトの魔力の根源に危害をおよぼすことはない。しかし根源を使い果たすほど魔力を何かに注ぎつづけたとき、いったい何を感じるだろう――とクルトは思った。ソールはかつて他人の生命を繋ぎとめるためにそれをやったのだ。
学院の教師が好む表現のひとつに、魔力とは「粗い網」のようなものだ、というものがある。どれほど繊細に編んだつもりでも隙間から逃げていくものがあるという、このいいまわしは戒めだった。他人の生命を繋ぎとめようとするのは魔力の「正しい」使い方ではない、ということだ。
とはいえソールの魔力の根源がこれで使い果たされてしまったのかどうか、本当のところはわからなかった。仮説はいくつかあるが、ソールは魔術師にとっても謎なのだ。
ふいに環が青い光に満ち、ついでその光が炎のように高くのびあがった。
「あーいいな。もう大丈夫だ。十分だろう」とセッキがいった。
さすがのクルトも冷たい汗をかいて、自分の中が空っぽになったような気がした。後ろから肩をたたかれる。びくっとしてふりむくとソールが眉をひそめて「大丈夫か?」とささやく。
「もちろん」
クルトのひたいにソールの手のひらがあてられる。ひんやりして心地よかった。
「イーディ、今度こそお茶をもらえるかな」
「はい! ソールさんの分もお持ちします。よかったら食堂からお昼も持ってきますけど」
「もうそんな時間か?」
クルトは驚いてつぶやいた。たかだか十分程度のことのように感じていたのだ。セッキがうんうんとうなずきながら「たいした集中力だ。ヴェイユにも負けんな」といった。
そうするうちにも、徒弟らしい少年と一緒に部屋を飛び出していったイーディが食事の盆を持って戻ってきた。なんだか家庭的な雰囲気だとクルトは思った。食べ物や飲み物をならべた応接用のテーブルを四人で囲むと、王立魔術団の事務的で冷たい雰囲気とのちがいをはっきりと感じる。
「ソール、海辺はどうだ。前より顔色もいいし、調子も良さそうだが」とセッキがいう。
「ああ、そうだね。王都もたまには悪くないが、あっちの方が落ちつくといえばそうだ。毎日歩くのもいいらしい」
「そうか。俺は最近太りはじめた」セッキはローブの腹をパンパンと叩いた。
「いつも痩せているソールがうらやましいぞ」
「動かないで飲み食いばかりしているからですよ」
イーディが口を挟む。師と呼んではいるものの口調は遠慮がなく、しかしセッキは何も動じていないから、いつもの会話なのだろう。
「黒いローブは着やせするからいい、なんていってたら、あっという間に樽みたいになりますからね」
小柄で髪を短く刈ったイーディが、セッキと同じローブを着て大柄な彼の横にならんでいるのは面白い眺めだった。
回路魔術師には精霊魔術師のような位階がないし、師団の塔に入るために学院の卒業は必須ではない。回路魔術師になる者の多くは学院の授業と並行して師団の塔で徒弟修行を積むが、学院に行かず、年少のころから師団の塔に徒弟として住み込む者や、城下から子連れで通う回路魔術師もいる。ここが家庭的だと感じるのは、遠くから赤ん坊の泣き声がきこえてくるからだ。
「そういえばひとつ聞きたいことがあった」とソールがいった。
「なんだ?」
「最近、塔で印刷機の開発はしているか? 回路魔術でずいぶん便利になったという噂を隣国で聞いたんだが」
「印刷か。ああ、熱心にやってるのが何人かいる」
セッキは真上を指さした。
「アイデア次第でいくらでも改良できるし、面白い分野だ。回路魔術の応用範囲も広いしな。微調整は回路で制御するとか、持ち運べるくらいの小さい機械を作れないかとか、いろいろやってるらしい」
「活字はどうだ? 回路魔術が使えるところはある?」
「活字ね。あれは金属だな。回路魔術との相性は悪くないはずだ。俺は知らんが、話を聞きたいならやってる連中の都合を聞いておく」
「ありがとう」
「いまだに手写本をありがたがる連中も多いが、今後は印刷の本にかなわんだろうな。写本はどんどん減るだろう。何しろ高くつく」
セッキは呑気な口調でいった。いや、この男が話すとどんな内容でもそう響くのかもしれない。
「印刷機はこれからもっと安上りになっていくし、いずれは職人でなくても扱えるくらいになるかもしれん。かなり遠い未来だろうがな」
「魔術書なら写本はまだまだ人気だ」ソールが眉をひそめていった。
「精霊魔術に関する書物には印刷に向かないものがある。写本工房を持つ貴族も」
「印刷に向かないっていうのは、魔力だけが多い連中の勘違いかもしれんがね」
あっさりそういったセッキは、ソールとクルトの顔を交互にみて豪快な笑顔を作った。
「そんな顔をするなよ、精霊魔術師よ。例外があるのはわかっている」
昼食を終わるころにはクルトの頭は聞きなれない言葉でいっぱいになっていた。イーディはもちろん、ソールもセッキの話についていけたようだが、クルトにはちんぷんかんぷんのことが多すぎた。
「回路」の基礎ならクルトも学院で教わったが、通りいっぺんの知識を得ただけにすぎない。精霊魔術が自在に使える人間にとって、回路魔術というのは粗雑で持って回ったものと直感的に思われる傾向があり、クルトもその例にもれなかったのだ。
だがセッキとソールの会話には時々「優美な回路」という言葉が飛び出してくる。美しいとか汚いとか醜いとか、そういった形容を回路にあてはめること自体がクルトにはよくわからなかった。しかしソールは楽しそうに話をしていて、クルトは彼のそんな様子を見るのは嬉しかった。ふたりは上機嫌なまま師団の塔を出た。
「僕はこれから学院へ行く」とソールがいった。「きみは?」
「王立魔術団に顔を出す」
クルトは内心、面倒くさいと思いながら答えた。できるならこのままソールと一緒に学院へ行きたいくらいだ。
「ソール、今晩は外で食事をしないか」
「かまわないが、僕はいつ終わるかわからないぞ」
「終わったら俺も一度カリーの店に戻る。それからでいいだろう?」
心残りを感じながらクルトはソールと別れた。こうなると晴れた空が恨めしく感じられる。師団の塔から王城の中心にある王立魔術団の回廊まではけっこうな距離があった。師団の塔とはうってかわって静かすぎ、取り澄ました雰囲気で、クルトはそれにもげんなりした。
はたして今日は何をさせられるのかと思いきや、回廊の奥の広い部屋で初対面の精霊魔術師につぎつぎと紹介され、問われるままに話をしただけである。内容は治療師の仕事の話や、隣国についてどう思うかなど多岐にわたった。意図をはかりかねる会話も多かった。
相手は精霊魔術師だから、もちろんクルトに感情を気取らせるようなことはない。この前のような幻影を仕掛けられることもなく、念話すら使わなかった。クルトも自分の魔力を抑えたまま白けた調子で乗り切ったが、気がつくと午後もなかばをすぎている。紹介というより面談に近いものだったと気づいたのは、やっと解放されたあとである。
ひょっとしてこれも何らかの「試験」だったのか。
そんなことを考えつつ王城を歩いていたとき、クルトの思念にかすってくるものがあった。
『――クルト兄さん』
『マンセル』
金髪の少年の思念は、高く透きとおった鐘の音のようにクルトの方へ伝わってきた。
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