序章 地上に降りた雲 3.ソール

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序章 地上に降りた雲 3.ソール

 南の島の植物は僕とクルトが暮らす村の植生とはぜんぜんちがった。  風でしなった枝が天幕の入り口に垂れている。僕はとがった葉を払いのけてしなる枝を反対方向へ押した。素直な枝はさわさわと葉擦れの音が響かせ、きれいな弧を描いて向こう側に曲がった。  天幕は森に切り開いた空き地に間隔を置いて張られていた。ハミルトンはこの配置に意味があるという。この島の住民にはよそ者を森に滞在させるときのきまりがあるのだ。天幕の内側はふたつの寝台と足もとにまとめた身の回りの品物で埋まっている。僕が持ちこんだ何冊かの書物は万が一の水濡れを避けるために革の鞄におさめられている。 「今日はどうだった?」  クルトが寝台の上に寝そべり、のびをしながらそうたずねる。僕は向かい合わせに置かれたもうひとつの寝台に座る。 「順調だったよ。疲れたが、楽しい」 「こっちも順調だ。海も穏やかだし、守り神がついてると島民がいってるらしい。レナードは遺物の引き揚げが終わったら沈んだ都市自体を細かく調べたいようだが、こっちの方が大変だからな」  今日もクルトは船に乗るために朝早く出て行った。僕はというと一日じゅうハミルトンの指揮下で遺物を洗い、磨き、分類していた。いつもの生活とはまったくちがう作業で楽しかったし、胸騒ぎがする物には不用意に触らないよう気をつけた。たとえば金属の四角柱に彫られた裏返しの文字――金属活字には。  あの文字。  どうしてあれがこんなに気になるのだろう。その後も海底から引き揚げられた遺物の中にあの金属は時々混ざっていた。金属活字である以上、ほかの遺物より新しいのは明らかだった。木版ならともかくとして、印刷技術が発明される以前に金属活字が存在したはずはない。  書物といえば手書きの写本しかなかった時代はとうの昔に終わっている。今回引き揚げられた遺物は写本と木版しかなかった時代に属するものだ。それよりはかなり新しいあの金属が古い時代の遺物に混ざっているのは、たとえば以前難破した船の積荷があの『溜まり』へ流れついたとか、そんな理由だろうか? しかしあれに刻まれていた文字は、はるか昔に使われなくなった古代のものだった。  胸の内にひどく嫌な感じがあった。けれど僕はクルトに悟られたくなくて、その話はしないことにきめる。嫌な感じがするのは、僕なら裏返しになったあの文字を読めるからだ。おそらく読める者がほとんどいない、魔術を記すための文字を。その文字が記された本の多くは十数年前、とある火事で焼けている。僕の目の前で燃えた書物もある。燃えて、肝心な書物のひとつは失われ……。 「それにしてもレナードはどうやって今回島民の協力を取り付けたんだろうな」  物思いにふけっていた僕を呼び戻すように、寝そべったままクルトがいった。 「いくら王族同士の婚姻関係が密で親しいといっても、本国の貴族でもないのに」 「レナードは前に古い井戸をいくつか修理している」と僕は答えた。 「このあたり――南方の島嶼部はこの国の中央には重要視されていないらしいな。行政もいい加減な扱いだったのを、回路魔術のギルドを隠れ蓑にして資金を融通したようだ。今回の協力はその礼なんだろう。発掘に必要な資金は十分すぎるくらい出しているだろうしね」 「そうか」  クルトはあっさりいった。僕はレナードの意図をすこし考えた。彼は僕らの故郷――王国の外交官のような側面も持っているし、商業家としては遠回しの布石をたくさん打つ性格でもある。このあたりの島々は海に浮かぶ宝石のようで、美しいがこれといった産物をもっていない。しかしレナードのことだから、発掘を口実にこの地域の状況を調べておきたいのかもしれなかった。  僕らの故郷の王国は森や鉱山資源に恵まれた豊かな小国だ。一方、隣に位置するこの国との関係は長く複雑で、長期にわたって対立していた時期もある。それは回路魔術が発明される以前のことだったが、何年も続く戦争のあいだに僕らの故郷の回路魔術は王国を防備する手段として洗練された。  戦後平和な時代がながくなると商業が活発になり――もとから言葉もあまり変わらない上、たがいにないものを持っていたからだ――まず王族同士で婚姻関係が結ばれた。時代がくだると貴族や平民のあいだでも親戚関係が増えていき、いまやふたつの国は兄弟のように強力な同盟を築いている。それは僕がこの国の海辺の村でクルトと一緒に暮らすことができる、大きな理由のひとつでもある。  もっとも今この国で暮らしている直接的な理由は、王都での生活に僕の体がついていけなかったせいだ。しかし最初に僕が王都を離れたのはトラブルからの一時避難だった。その前に起きたさまざまな出来事からの、一時の退避。  今も僕の根になるものが王都にあるのはたしかだ。なにしろあそこには僕の店がある。 「今回みつかった遺物、前にソールが話してくれた図書館に関係があるのか?」クルトがたずねた。 「図書館?」 「町の店でいってただろう。水に浮く都市の話だ」 「ああ、それか」  僕は思わず笑う。クルトは僕が話したことをよく覚えている。 「どうだろうな。あれは書物に書かれた伝説にすぎない。書物は必ずしも本当のことを伝えるわけじゃない。今回みつかった遺跡にもし、その浮遊都市の痕跡が残っていればすごいことだ。でも伝説と事実を混ぜてはいけない」 「ソールはなんていったっけ」 クルトは寝台の上におきあがり、僕の方へ身を乗り出した。 「待てよ。思い出すから。たしかこうだ。古代、回路魔術が発明されるずっと以前、選ばれた精霊魔術師の魔力だけで水に浮き、自在に大洋を漂う交易都市があった。強力な精霊魔術師が集っていたため、この都市の図書館にはあらゆる秘伝が収集されていた。しかし予想もつかない大きな嵐と海底火山の噴火が重なって、この都市は沈んだ。そんな話だったな」 「よく覚えているな」 「俺はソール・カリーの徒弟だからな。王都第一の魔術書の書店。その伝説的店主に直接教わった」  クルトは平然とそんなことをいい、遮ろうとした僕を手をあげてとめた。 「続きがある。都市を支えていた精霊魔術師がひとりだけ生き残り、海に散らばった書物をひろって保存した。それらの書物はすべて特別なものだった。力の書。生きている本。それ自体が魔力を持つもの」 「伝説だよ」僕は繰り返した。  クルトがいうたぐいの書物はたしかに存在する。僕はその秘密のいくばくかを知っているし、クルトも多少は知っている。なぜなら僕が魔力を失った理由はまさにその〈本〉にあるからだ。  力を持つ特別な魔術書は王国では厳重に管理されている。理由は簡単、とても危険だからだ。  浅はかだった僕はかつてうかつにもこれに近づいたのだった。結果はご覧の通り、僕は魔力や友人や、王立学院で精霊魔術師を志す学生にあるべき未来をすべて失った。 「実際にみつかった遺物を調べてわかるのはそんな――伝説の保証よりも、もっと面白いことだ」と僕は続けた。「人々が実際に生活していたあかし。昔生きていたひとびとががどんな風に考えたのか、どうやって作ったのか、何を信じていたのか。それを理解するんだ」  クルトの表情が大きく動き、彼は周囲が明るく照らされるような笑顔をみせた。彼の笑顔はとても特別なもので、何回もみているのに、いまだにどきりとしてしまう。どんな気難しい老人の警戒も解き、味方につけてしまうような魅力的な笑顔。 「ソール、休暇をここで過ごすことにしてよかった?」クルトがいきなりいう。 「ああ?」 「見方を変えればレナードにこき使われてるようなものだぜ」 「そんなこと思ってもいないくせに。きみは僕が本と仕事に埋もれていると非難していたじゃないか」 「そりゃそうだ。ソールは仕事のしすぎだ」 「まさか。そんなことはない。僕は――」 「ソール・カリーの大きな問題は働きすぎるってことだ。ここには休暇で来てるんだぜ」  クルトは寝台から立ち上がり、僕の肩を抱いた。首筋に彼の吐息があたり、僕はそのまま寝台の上に倒されてしまう。 「ちょっと休暇らしいことをしよう」 「クルト、ここじゃ」  しっとクルトはささやき、唇を落としてくる。クルトの口づけはいつも甘く、僕はあっけなく抵抗を解かれた。のしかかる彼の体からはかすかに麝香の匂いがして、僕を自然に興奮させる。 「ソール・カリー」耳元でささやかれる。「王都の伝説的な店主にこんなことをしてるなんて、光栄にすぎるな」 「馬鹿いうなって……」  僕はクルトを引きはがそうとした。多少距離があいているとはいえ天幕は天幕だ。外に声が聞こえないともかぎらない。 「ソール、浜へ行こう」  クルトは僕を抱きしめたまま低い声でいった。正面からみつめられると欲情で濡れた視線が刺さるようで、僕は動けなくなる。 「浜って、いまから――」 「ふたりになれる」  クルトは僕のうなじをまさぐり、その手を腰まで下ろしてくる。 「大丈夫だ。ほかに誰もいないから。俺にはわかる」 「きみは――」  僕はため息をつくが、ほんとうは根負けしたふりをして、僕の中の秘めた望みをクルトが察してくれたのを喜んでいる。クルト・ハスケルは最初の出会いからいつも僕を驚かせてきた。  ソール・カリー。僕はそう名乗っているが、カリーの名は生家のものではない。学生のころから僕が出入りしていた魔術書専門の書店、学生や教師のあいだで「カリーの店」と呼ばれる古書店を先代のカリーから受け継いだときから、僕は正式にそう名乗るようになった。実の父親にはとうの昔に縁を切られている。学生時代の最後におかした過ちのあと、後見人になってくれたのは先代のカリーだった。  とはいえ海辺の村で暮らすようになってから、王都の店の権利は半分レナードに譲った。今の僕の役割は共同経営者として仕入れの管理をすること、目録をつくること、手紙で問い合わせてくる顧客の相手をすることだ。王都の店の運営――むかし僕を煩わせていた帳簿や雑用のたぐいはレナードの家令のハミルトンが人を雇って続けている。  最近はこの国にもカリーの店の二号店ができた。レナードの発案で、海辺の村の隣町、クルトが所属する施療院がある町に書店を開いたのだ。このあたりには書物を扱う店がなかったのでレナードは商機とみたらしい。ここは魔術書専門ではなく、一般の人が欲しがる書物を扱っていた。いまのところ僕ひとりで見ているから、毎日開けているわけでもないが、商売として悪い結果にはなっていない。  毎日店に出ないのは、魔力を失くして以来ポンコツになった僕の体のためでもあるが、ほかの仕事とのかねあいもあるからだった。僕とクルトが暮らす海辺の村の家はとある貴族の別荘で、村の相談役も含めた管理までが一応僕の役割なのだ。相談役といっても役目の大半は子供たちの勉強をみることで、村人は無償で僕らの身の回りの世話をしてくれる。  クルトは町の治療者として「若先生」と呼ばれ、僕はあの地方の発音で「ソル先生」と呼ばれていた。僕らの関係をあからさまに口にしたことはないが、世話をしてくれるおかみさんや子供たちはおそらくわかっているだろう。  王都で精霊魔術師になろうとしていた学生のころは、こんな未来があるとは思ってもみなかった。 「満月は今日?」  クルトが空を見上げる。砂浜は月の照り返しで明るく、僕らの影がくっきりと落ちる。 「明日だ。明るいな」 「こっち」  クルトは僕の手を引いて進む。岩陰に入ったとたん強く抱きしめられてキスをされる。さっきより激しい深いキス。舌が絡んで強く吸われ、僕の頭はぼうっとしてくる。シャツの前から指が入りこみ、胸の尖りをいじられると僕の腰が勝手にうごめく。 「ああ……ソール、可愛い……」  クルトの舌が僕の顎から首筋を舐めていく。ささやきに僕の理性は抵抗しようとするが、ほんとうのところそんなのは無駄だ。砂の上に倒れこみそうになった僕をクルトは支え、彼のローブの上に横たえる。明るい月夜にこんな――と羞恥を感じる僕を見透かしたように、クルトがまたいう。 「ソール、見てるのは月だけだよ……」  股間に彼の口が埋められ、咥えられたとたん僕は声を漏らしてしまう。クルトは丁寧に僕自身を舌で愛撫した。彼の唾液にあおられるように僕自身からもしずくが零れ、腹から股のあいだを伝っていく。 「や――あっ……クルト――あっあっ――」 「ソールの声……可愛い……」  クルトのささやきがずっと下から聞こえてくる。いつのまにか下衣は消え、むき出しになった両足を曲げられる。左の足首にクルトの唇が触れ、嵌められた足環を意識した。風はほとんど感じられず、波の音と肌を撫でる空気とクルトの舌と指だけが感覚を侵していた。  僕は目をあける。月の光がまぶしくて、また閉じる。 「ソール、大好き……」  クルトの怒張が僕のそれに触れた。擦れるだけで快感がこみあげ、僕は自然に声を漏らしてしまう。クルトの唇がもう一度僕の口をふさぐ。舌と腹の上に感じる彼の怒張はまともな思考を奪うのに十分で、耳たぶを噛まれたとたん、僕は甲高い声をあげていた。 「クルト――クルト、ああんっ」 「もっと欲しいよね? ソール……」  クルトの指が僕のうしろに回る。尻をなぞってもっと下へと、道をたどるように動く。 「もっと……ね?」 「いや……あ――ん、あ……クルト――」  その時ふいにクルトの動きが止まった。  僕の上にのしかかったまま顔をあげる。 「クルト……?」 「ソール――天幕の方で何かが」  クルトの体に緊張が走った。僕の中から指が抜かれ、甘い雰囲気がかき消える。でも僕はまだ皮膚の内側に呼び覚まされた疼きに気をとられていた。 「天幕?」 「まずい」  クルトは硬い声でつぶやいた。「戻らないと」
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