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序章 地上に降りた雲 5.ソール
商業ギルドの客間の暖炉はきれいに掃き清められていた。
この部屋には前にも泊めてもらったことがある。僕は寝台のひとつに腰をおろして靴紐を解いた。あれは冬至の日で、この暖炉では炎が陽気な音を立てていたし、今は冷たい灰色をしている炉床にも火花が散って煤で黒くなっていた。
もしも今、この炉床が炎に覆われていても僕が意識を失うことはないだろう。厨房のかまどやランプの炎だってそうだ。
それなのにある種の「火」に僕が耐えられないのはなぜだろう。
「あちらに浴室がございます。お湯はもう用意してありますが、お連れの方は?」
メイドにそうたずねられ、僕はあわてて返事をする。
「何か用事があるといって出たけど、すぐ戻ってくるから大丈夫です。ありがとう」
「かしこまりました」
メイドの足音を聞きながら僕は靴を脱ぎ捨てた。一緒に到着したクルトは荷物を置くなり「しまった」とつぶやき、何か忘れていた素振りであわてて出て行ったのだ。彼が戻る前に風呂を使っても怒りはしないだろう。浴室の水栓は回路魔術の機械で制御されているが、魔力欠乏のおかげで僕はこの手の装置を使うのがとても下手だった。せっかくの湯を冷ましてしまうのはしのびない。
久しぶりのゆったりした入浴は気持ちがよかった。開いた窓から涼しい風が入ってくる。
港湾都市の商業ギルドは波止場から坂道を登ったところにそびえる石造りのどっしりした建物で、宿屋ではない。島からここまで戻ってきた僕とクルトがここの客間を借りられるのはギルドに影響力のあるレナードのおかげだ。レナードはいつも笑顔でその特権を受け取れというのだが、今回は特にありがたかった。島を発つ前の騒動の途中で僕は倒れてしまったからだ。遺物を盗もうとした男から突然燃え上がった火のせいで。
僕は自分の記憶をさぐる。発火の瞬間までは覚えていた。今もありありと思い出せる。クルトが僕の前に立ち、男はその先で縛り上げられている。手足が狂ったように暴れだし、太いロープが千切れて落ち、もがく男の体から炎が上がり――
その後がはっきりしない。僕の意識は炎をみた瞬間から飛んでいるようだ。またクルトに心配をかけてしまったのが悔やまれるが、どうしようもなかった。
ときどき怖くなることがある。クルトはこんな僕にいつまでつきあってくれるのだろう。魔力欠如をはじめとした僕のこの状態はすべて過去に僕自身が起こした行動の結果だ。だから僕が引き受けるしかないのは当たり前のことだが、クルトにその義務はない。彼には生まれ育ちも能力も美貌もあるし、自分の力をさらに高める強い意志もある。願ったものすべてを手に入れられる男なのだ。
いや、クルトは自分の意志で僕のそばにいるのだから、僕がこんな風に考えること自体がもとより傲慢というものだ。僕は手で湯をかきまわしながらため息をついた。海辺の村で暮らしはじめてから僕はあまり内向きの思考に陥ることがなかった。今こんな気分になっているのは島で起きた出来事のせいだろう。普通なら早いところ忘れてしまえ、と思うところだ。ところが僕には忘れられない特技があって――いや、こんなときは呪いというべきだ――ともあれ、ほかのことで気をまぎらわすしかない。
清潔な夜着に着替えるとさっぱりして気持ちよかった。バルコニーから見下ろした景色は、遠くまでひらけている。眼下に広がるのは迷路のようにこみいった古い街路だが、坂道は港と海につづき、その向こうには水平線がある。
港には大きな船が何隻も停泊している。この都市は大陸との重要な接点で、大型船のほとんどはこの港から海を渡る。大陸からもたらされる品物を求めて人々が集まるために、港湾都市の街並みはこの国では首都の次に大きく活気にあふれている。だが島から戻ってくると、出発した時とは何かが違って感じられた。夏の日差しはまだ鋭く感じられても、風に秋の気配が忍びこんでいたからか。あらたに船が何隻も到着しているためだろうか。
今日の昼間、クルトと街を回った時も、見慣れない服装の商人がたくさんいると思ったものだった。僕とクルトが暮らしているのは港湾都市から馬車で沿岸を北上した先にある小さな村だから、ここまで来たなら土産を手に入れたり、頼まれた買い物をしないわけにはいかない。
そういった用事を片付けたあとは老学者アルベルトの指示を伝えるために彼の著書を出版している書店へ出かけ、本を編纂をしているサージュという学者崩れの男としばらく話しこんだ。それが思いのほか長くなったのは、サージュが大陸からの船に積まれていた書物や稀覯本を狙う窃盗団の噂について話してくれたからだが、気がつくとクルトが居心地悪そうに書棚の間であくびをしていて、僕はあわてて話を切り上げたのだった。
このサージュという男と会うのは三度目だった。初対面はアルベルトの校正刷りの確認作業の時で、二度目は僕の店――隣町の二号店――へ彼が来訪したときだ。今回も含めてサージュにはどこか気にかかるものを感じるのだが、それが何なのか僕にはよくわからなかった。
サージュは感じのいい男ではない。レナードとよく似た黒髪に浅黒い肌、そして長身だが、吊り目のきつい顔立ちや雰囲気はレナードとは似ても似つかない。しかし彼にはたしかに知性のきらめきがあり、僕と同類の書物狂のように思えるから、気にかかるのはそのせいかもしれない。
あるいは彼の声のせいかも――サージュの声はおそろしくしわがれていた。僕と同世代のはずなのに、老人のように、あるいはそれ以上に苦しそうな声なのだ。
そこまで思い起こしたとき、記憶の底を何かがひっかいたような気がして、僕は無意識に体を震わせていた。何かを見落としている気がしてならないのに、何なのかわからない。
ギルドのバルコニーから見える空は夕闇が深くなっていた。そろそろクルトは戻るだろうか。夏の休暇はもう終わりだ。最後はどうであれ、充実した毎日だったというべきだろう。村に帰ればまた静かな生活に戻れるはずだ。
「ソール」
ふりむくとクルトが部屋の中から僕を呼んでいた。バルコニーから戻ろうとすると、腕が伸びてそのまま引きこまれ、肩を抱かれる。クルトの鼻が僕の首に押しつけられる。
「風呂、入った?」とクルトがつぶやく。
彼の髪が肌に触れてくすぐったかったし、犬を思わせるふるまいだった。僕は思わず笑った。
「ああ。先に使わせてもらった。どこに行っていたんだ?」
「買い忘れていたものがあったんだ」
クルトは魅力的な笑みを浮かべた。あたりが一気に華やぐような、好意をもたずにはいられない笑みだ。なのに鼻を滑稽にひくひくさせて「いい匂いだ」などという。
「きみも入れよ。気持ちがいい」
「ああ。でもその前に」
クルトの体臭――麝香のような香りがかすかに漂った。唇を唇でふさがれたかと思うと、何を考える暇もなく深い口づけに囚われてしまう。クルトは僕を壁に押しつけ、むさぼるように舌を入れてくる。反射的に口づけを返しながら、たちまち体が熱くなるのを感じた。そういえば――と僕は思った。島にいる間、ろくに彼とこう――していない。砂浜の夜も途中で……。
「ソール……」
クルトの吐息も熱かった。
彼の指が僕の腰にさがり、布の上から尻を撫でる。無言で抱きあううちに互いの熱が高まってくる。クルトはとうにローブを脱いでいた。腰を抱かれたまま誘導され、そのままふたりして寝台に倒れこむ。クルトは僕の上にのしかかり、肌のあちこちに唇を押しつけ、ついばむようにキスをする。目じり、頬、顎、耳、首筋……足がからまって、布越しにたがいの緊張をはっきりと感じた。
「ソール……あの」
僕の顎を撫でながらクルトがささやく。
「――ん?」
「ちょっと変わったこと――していい?」
ぱっと自分の頬が熱くなるのを感じた。
「変わったこと……って」
「怖くないから」
ますます顔が染まるのを感じながら僕は顔をあげ、見下ろしてくるクルトの視線を捕まえる。くっきりと蘇る記憶が僕を満たす。それは前にこの部屋に泊まった冬の夜のことで、あの時もクルトは同じことをいって――
「まさか――クルト、買い忘れていたものって……」
「いい?」
僕は抵抗できないままクルトの下にいる。いつうなずいたのか、自分でもはっきりしない。体が勝手に動くのを意識の方が一秒後で自覚しているようだ。クルトは僕の右手首をもちあげ、内側に口づける。腰の奥で血がたぎり、ドクっと鳴る。クルトは左手首も同じようにもちあげて、僕は力の抜けた両腕を寝台の上に投げ出された。シュッと布が締まる音が聞こえる。
あっと思ったときは、もう腕は下ろしたり、振り払ったりはできなくなっている。寝台のどこかに両手を縛られてしまったからだ。クルトがささやく。
「いくよ?」
また、僕は気づかないうちに彼の言葉に小さくうなずいている。どこからともなく取り出された幅広のリボンは夜の藍色だ。それが視界を覆い、眼をあけても僕には夜の色しかみえなくなる。
クルトの手が夜着のボタンをひとつひとつあけていく。手の動きを封じられ、視界をさえぎられた僕の感覚はすでに彼の動作に敏感になりすぎている。クルトの息や指が触れるだけでぞくぞくと震えが走り、腰が期待に揺れた。羞恥に僕は唇を噛むが、クルトは手で僕の口をこじあけ、唾液で自分の指を濡らす。
「ソール……だめだよ。噛まないで……」
僕は答えられない。温かい舌が胸の尖りを舐めたからだ。さらに別のぬくもり――いや、熱さがへそのあたりを覆うのを感じる。甘い蜜の匂いがクルトの体臭と混ざりあう。前もこの匂いを嗅いだことがある。買い忘れという言葉が頭をよぎる。このけしからんものをクルトは前も使ったのだ。あのときは――
「あ……クルト、や、あっあっ……」
「気持ちいい?」
「あ、だめ――あぅ……」
くすぐるような快感が全身を侵してくる。両手首を拘束されたまま僕は腰をくねらせてしまい、クルトはそんな僕に「可愛い」とささやきかける。そのたび僕は羞恥で顔に熱を感じる。
クルトは蜜を僕自身に塗りひろげ、余った粘液が股間をくだって、尻の方まで垂れ、後ろを濡らした。彼の肌の重みが上にのしかかり、彼自身の怒張が僕自身と擦れる。
「ん……はぁ、あっ、あ――待って――」
「我慢しなくていいよ?」
僕はもう声を抑えられないし、擦られただけでいつの間にか射精している。なのに欲望は消えない。尻の奥に甘い蜜にまみれた指が入りこむ。クルトは僕の胸から腋のしたへ唇を押しつけ、舌で執拗にねぶっていく。
「ソール……可愛い――ここいい?」
「や……」
「ここは? ここも好き……だね……」
「クルト――もうっ……あ、あ、あんっ」
もうだめだ。僕は屈服する。クルトの与える愛撫に何度も首をふり、もっとくれとねだる。指じゃ足りないと懇願してもクルトはなかなか許してくれない。僕を焦らし、さんざん弄ったあとで、ついに彼自身を僕に突き立てる。
いつの間にか目隠しは外され、腕の拘束もなくなっているのに、いつそうなったのか僕にはわからない。うつぶせになって激しく腰を振り、クルトを中に呑みこんでいる。
「ソール……好きだよ……大好き」
「僕も―――あ、んああああ!」
最近の僕らのセックスはときどきこんな風になる。クルトは僕の感覚や自由を一部奪い、僕は彼のなすがままに自分の支配を明け渡す。翌朝目覚めて思い出すと恥ずかしさでいっぱいになるが、僕は彼を拒否できたためしがない。
それに心の奥底ではとっくにわかっているのだ。クルトは僕が願っているものを与えてくれているのだと。クルトは僕の心を読めないのに、どうしてそれがわかるのだろう?
何度かひとつの寝台の上で絡みあって、そのあとふたりで風呂を使った。クルトは力の抜けた僕の体を丁寧に洗って、使っていなかったもうひとつの寝台に誘導する。清潔な敷布に僕をくるんで、前髪を後ろに撫でつけた。指が触れる感触が心地よかった。眠気に負けて僕は目を閉じてしまう。
「……クルト」
「ん?」
「そんなに僕を甘やかさないでくれ」
「どこが?」
寝台が揺れ、クルトが離れる気配がした。
「ソール、眠い?」
「うん」
「ちょっとだけ目をあけて」
僕は重いまぶたをおしあける。クルトの手の中に鮮やかな青と緑がみえる。島でみた色だと僕は思う。
「前髪が落ちるだろう。明日からこれを使って」
「きみはいつも……」
僕はため息をもらしそうになり、あわてて礼をいう。
「いつもありがとう」
「まさか。俺はこういうのが好きなの」
クルトは微笑んだ。
「ここに置くから忘れないで。ソールは忘れないだろうけど」
僕はうなずき、ひそかに感謝する。クルトの笑顔をずっと覚えていられることに、彼を僕のもとにもたらしてくれた運命に。そしてやわらかい眠りのなかにおちこむ。
『ソール』
深夜、名前を呼ぶ声と同時に鋭い警笛のような音が聞こえ、僕は飛び起きた。隣に上掛けにくるまったクルトの丸い影がある。
頭の片隅では村の子供たちか、村人の誰かが火事や急病人のような非常事態で僕を呼んでいると思いこんでいた。自分では目覚めているつもりだったが、僕はまだ夢の中にいたのかもしれない。寝台を降りてバルコニーをのぞき、はじめてここが村ではないこと、まだ夜明けにほど遠いことを理解した。
水を飲んで寝台にもどるとクルトが僕の方へ体をよせながら寝返りを打ったが、目覚めた気配はない。彼はよく眠るのだ。一方僕は暗闇をみつめながら、目覚める直前に聞いた音や声をくわしく思い出そうとしていた。
もちろんただの夢だろう。あの声は蜂が頭の中で唸っているような、騒がしい音のさなかに浮き上がるように聞こえたのだった。機械がブンブン鳴る工場のような音だった。たとえば回路魔術の工房とか、印刷所とか……。
呼び声。僕を呼ぶのは誰だろうか。
それ以上考えないほうがよさそうだった。闇の中でクルトの規則正しい寝息が聞こえ、僕の頭の中のざわめきが静まっていく。
次に目覚めかけたとき、僕は柔らかな黄金色をまぶたの裏に感じながら、弦を甘く弾くようなうっとりする音楽の響きを聞いていた。金色の夢の音楽が深夜の警笛をかき消し、外の海は朝の光をうけて輝いている。
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