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序章 地上に降りた雲 6.クルト
岬の先端、断崖絶壁のすぐそばで、白髪の老人が腰に手をあてて海を見下ろしている。
クルトとソールが近づいても老人の視線は海と空を向いたままだ。その理由はわからなくもない。今日の海は灰色をおびた濃い青だったが、断崖からすこし離れた沖は奇妙な形の雲に覆われていたからだ。
まるで海の上に雲の断崖があらわれたようにもみえる、幅広く厚い層状の雲だった。妙に落ち着かない、不吉な感じを与える雲だ。
「アルベルト師。変わった雲ですね」
ソールが声をかけると、老人は今気がついたように彼の方を向いたが、口調は平静なものである。
「海霧だ。じきに浜の方へ流れてくるかもしれん」
「霧ですか? 雲ではなく?」
「海面に接しているからな。この季節の海霧は珍しいが、温度が下がったのか……あとで計測に行かなければ」
ひとりごとのようにつぶやいて、アルベルトは思い出したように「ところでソール、帰ったのだな」という。この老人は思考の順番がいつも自分本位なのだ。
「はい。あなたの指示も版元に伝えましたよ。それと頼まれていたものも」
「持って帰ったか!」
とたんに老人は破顔して手を打った。海のことなど忘れたようにいそいそと向きを変え、住まい兼研究所である塔へふたりをうながす。
「でかしたぞ。島嶼部の植物は手に入れにくい。標本にするのも手伝っていくかね?」
「いえ、俺たちは村に帰りますから」
渋い声でそういったクルトの言葉もほとんど耳に入っていない様子だった。アルベルトの塔は雑多な物でいっぱいだ。彼が蒐集して分析している標本、紙束、それに書物の山。ソールはそこへさらに島から持ち帰った植物の包みを加える。
「ふんふん、良い、良い……そうそう、あんたらの目的はどうだったね?」
「海底遺跡ですか? うまくいったと思います。あなたが予想した『溜まり』をみつけました」
咳きこむように喋る老人と対照的にソールの口調は落ち着いていた。
「古代の都市が層になっているようです。引き揚げた遺物の調査はこれからですが」
「面白そうなものはあったかね?」
「もちろん。ただ最近の漂流物も混じっているかもしれません」
「漂流物?」
クルトはソールのそばで持ち帰った包みを開けていたが、彼の手が小さく震えたのを見逃さなかった。
「難破船――だと思いますが、他の遺物と時代がそぐわないものがあったので。『溜まり』にはそういうものも流れつくんでしょうか?」
「どうかな。『溜まり』に関係しているのはむしろ、火山活動に伴う海底自体の隆起なんだが。その、他と時代が合わないものとは何だね?」
「金属活字です」
「金属活字? 文字は判読できたかね?」
「それは……いや、そこまでは」
ソールは何かいいかけてためらった。
「僕の体調が悪かったので、もしかしたら見間違いかもしれません」
アルベルトはすこし黙っていた。頭の中で考えをめぐらせているようだ。
「ふむ。海流でたまたま流れて――ということもあるかもしれないな。しかし……仮説と合わない……海底隆起原則や水流循環について考え直さねばならんか……いや……」
ソールがあわててアルベルトのひとりごとをさえぎる。
「アルベルト師、遺物の調査は今後も続きますから、何かわかったらお知らせします」
「そうか?」老人はニヤニヤ笑った。「情報はいつも大歓迎だよ」
海辺の村に帰りついたとき、最初に迎えてくれたのは子供たちだった。ソールの生徒だ。
「ソル先生! ソル先生お帰りなさい!」
「先生遅い~」
小さな生徒数人がまとわりつく中、すこし離れて待っている子供もいる。馬車から降りたソールはひとりひとりに微笑みかける。年長の少女はソールに礼儀正しくあいさつをする。たしか村長か助役の娘だったはずだ。
身のまわりの世話をしてくれるおかみさんが郵便物をひと山運んでくれて、ついでにふたりは村人たちへの土産や頼まれた買い物を分配した。荷解きとあわせて昼の時間はそれだけで終わってしまったし、夕方浜へ散歩に行ったソールは出会った子供たちに島の話をせがまれて、なかなか離してもらえないようだ。
浜辺で子供たちが騒いでいるのを聞きながらクルトが何気なく厨房をのぞくと、見慣れない果物が置いてあった。赤茶色の外皮の割れ目から鮮やかな紅色の果実がのぞく。柘榴。これは荷物に入っていただろうか。
ひたひたと足音が聞こえ、ふりむくとソールが戻ってきたところだった。はだしの足から砂がこぼれた。
「これ、どうしたんだ?」
「ああ、きみが出ている時に商業ギルドで渡されたんだ。レナードからだといって。この季節には珍しいものだし、わざわざ手配してくれたんだな。荷物の隅にまぎれていて、みんなに分けそこねた」
なるほどとうなずいたものの、クルトはなんとなく面白くなかった。レナードはことあるごとにクルトの目を盗んでソールに贈り物をもってくる。いや、本人に「クルトの目を盗む」つもりはないのかもしれない。何しろレナードは目配りのきく人物だ。だからクルトが勝手に思いこんでいるだけかもしれないが、気に入らないものは気に入らないのである。
自分には競争相手が多すぎるのだ。レナードだけでなく、村の子供たちもソールをすぐに独占しようとする。ところがクルトの思いをよそにソールは呑気な口調で「気づかなくて逆によかったな」などという。
「どうして」
「柘榴なんてめったにお目にかかれない。みんなに分けたら僕らの分なんてなくなってるよ」
無造作に果実を取ったソールの指が、ぱくりと割れた部分にのぞくルビー色の種を剥きとる。
「どうせならこっそり食べたいだろう? きみと」
クルトはひそかに唾を飲んだ。ソールは自分の所作がどういう影響をおよぼすか、まったく気づいていないようだ。
「ああ、もちろん」
夕食をすませてからソールは郵便の仕分けをはじめた。豆のさやでも剥くようにひとつひとつ封書を開けて中身を広げ、ついで元に戻し、いくつかの山にわけていく。
郵便物のほとんどは王都のカリーの店から転送されてきたもので、稀覯本についての問い合わせらしい。あとで返事を書くという手紙の山が大きくなるのをクルトは何となく眺めていた。雑用を処理するソールの手は器用に休みなく動きつづけて、クルトの目に心地よい。
だがある封書を持ち上げたとき、その動きが突然止まった。
「どうした?」
「いや」
ソールは封書をひっくり返し、またひっくり返した。開けずにどの山とも違う場所へ置いたが、迷ったようにまた手に取る。
「誰?」
クルトの問いにちらりとまなざしを向ける。返事はごく小さかった。
「母だ」
「中を見ないのか?」
「そうだな。あとで……」
つぶやくように答えたものの、ソールはうしろめたそうな表情になる。
「カリーの店宛だから転送されて時間も経っている。急ぎの用でも間に合わないし――急ぎなんてことはないだろう。僕は十年以上前に縁を切られているし」
「そうか――それなら……」
こちらが何をいえることでもない、とクルトは引き下がったが、ほんとうにそれでいいのかと思わずにはいられなかった。クルトにしても自分の家族とまったく軋轢がなかったわけではない。特に王立学院の最終学年からソールと暮らしはじめるまでのあいだ、父親とは様々な問題があった。
だが今は折に触れて近況を書き送るようになったし、クルトの父は王国や宮廷の情報、他の貴族の動向などを定期的に知らせてくる。ハスケル家は故国で誇れるほど古い家柄ではないが、資産が多いこともあって宮廷では手堅い地位を占めている。クルトが父の意向に完璧にそっていたならば、学院卒業と同時に白い衣をまとう精霊魔術師となり、王城の政策部に所属していたことだろう。
しかしソールと出会ってクルトの進路は変わり、父との関係も一時こじれた。とはいえ親子の絆がなくなったわけではないし、今後は前よりよい関係に持っていくことだってできるとクルトは思っていた。そもそもクルト・ハスケルは物事に対して楽観的な人間なのである。
ソールは平民の出で、実家は商業を営んでいると聞いたことならある。クルトの家とはまったく異なるにしても、血のつながった家族で連絡も容易にとれない関係というのは、クルトにはいまひとつ実感がわかなかった。
ソールはクルトのもやもやした気分を察したらしい。
「前も話したかもしれないが、僕の父は塩や織物の取引で成功した人物だ」と穏やかにいった。
「事業を起こしたのは祖父ということになっているが、彼は商売の才覚がなかったようでね、実際に経営していたのは祖母という話だ。父は祖母に似たのかやり手で、二代目にして地元の村で名士と呼ばれるほどになった。ところが僕は父の期待を裏切ってばかりだ。両親とも黒髪なんだが、僕の髪色は祖父と同じらしい。中身も彼に似たのかもしれない」
ソールはクルトが贈った髪留めに手をやった。青と緑がランプに照らされてきらりと光る。
「おじいさまは北方の出身だったのか?」
「さあ。旅の途中で祖母に出会って結婚したという話だが、僕が生まれる前に亡くなった。僕は彼の蔵書は知っていても顔は知らないんだ。ともあれ父と祖父のあいだには諍いが絶えなかったようだし、晩年は祖母に商売をまかせきりで、ひとりで川べりの小さな家に隠遁していたと聞く。父からみれば責任感のないダメな男だったんだろうな。僕もおなじくらい期待はずれな息子で――もうこの話はやめよう」
ソールは肩をすくめ、母親の手紙を置いた。クルトは手紙の山に眼をおとし、ちらりと見えた紋章に眼をみはった。
「王立学院の紋じゃないか」
「そのようだな。もう一通ある。こっちはきみ宛だ」
今度のソールに迷いはなかった。てきぱきと自分宛の封書を開けている。クルトも封印をはがし、ふたつに折りたたまれた分厚い紙を取り出した。透かしの入った正式な用紙だ。横目で見るとソールの方はごくふつうの手紙のようで、むしろそちらを気にしながら手元に視線を走らせる。
「ヴェイユからだ」
ソールが何気ない様子でいった。精霊魔術師のヴェイユは王立学院の教授だが、ソールとは学院の同級生で、当時はとても親しかったらしく、そのせいかソールは気安く呼び捨てにする。
「学院の蔵書のことで相談があるらしい。近いうち王都に来るならと――クルト?」
クルトは手元の書状を三度読み直していた。内容は短かったが、すぐに頭が納得しなかったのだ。
「どうした?」
「王立魔術団の召喚状だ。王都に――戻れと」
「召喚状?」
「理由は書いていない。でも俺はソールの守護に任命されているから、王都に行くなら……」
クルトは眉をひそめた。ソールがこの村で生活するためには、王国に任命された魔術師が彼のそばにいなければならない。それは過去にソールが起こした事故の代償として王城で取り決められたことだった。クルトと離れたくなければソールも王都へ行くしかない。
「クルト?」
「ソールは……選べる。俺以外の守護魔術師をここに呼んでこのまま村で生活するか、一緒に王都へ行くか」
王都。あの都会はソールが暮らすのによい場所とはいえない。彼の体にはかなりの負担になるはずだ。この召喚の意味もよくわからない。キャリアも浅く一介の治療師にすぎないクルトを王立魔術団が呼び出すとは、いったい何があるのか。
嫌な感じがした。アルベルトの岬で感じたのと同じ、不吉で不安な気分がクルトの中にわきあがる。地上へ降りた雲がソールと自分をのみこんで、何もかもを不安定な白色に染めていくような、そんな予感を感じながらクルトはたずねる。
「どうする?」
ソールの答えは早かった。
「そんなの決めるまでもない。きみと王都へ行くよ。それにあそこには僕の店がある」
クルトは微笑んだ。期待した通りの答えだった。ソールと離れるなど、絶対に考えられない。
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