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第1部 朝露を散らす者 1.しるしの枝
記憶のとおりに鉛筆で線を引く。縦棒、横棒、縦棒を切り裂くような短い横棒……小枝を組み合わせたような尖った形が紙の上にあらわれる。
僕は図形をそのまま裏返した形をすぐ隣に書く。紙の上に残されたのはある秘密の言語の文字だ。おそらくこの言語が生きていた時代ですらほとんどの人が知らなかっただろう、秘密の文字。
この文字をみるのはずいぶん久しぶりだった。書物の壁のイメージが浮かぶ。図書室の奥のさらに奥、書架の向こう、閲覧台に載った一冊の本は革の分厚い表紙に覆われ、長い鉄の鎖で台座に留められて……。
扉がひらく音が聞こえた。鉛筆を持つ手がすべった。あせった肘が机の上をこすり、紙が床にはらりと落ちる。僕はあわてて机の向こう側へ出ると、書棚の下にすべりこんだ紙きれをつかまえようと床に膝をついた。
「おい、あんた?」
しわがれた声が響いた。この声は聞き覚えがある。僕はかまわずに紙を拾った。
「すこし待ってくれ」
顔をあげながら既視感をおぼえた。ずっと前にも同じようなことがあった。紙きれを片手に見上げると長身の男が怪訝な目つきで僕をじっとみつめている。浅黒い肌のなか、白目がきわだつ。
僕は立ち上がって膝の埃をはらった。
「サージュ。王都にいたのか」
「あんたの店を見にきた」
王都の『カリーの店』は小さな、知る人ぞ知るというたぐいの書店だ。下町の商店街の隅、路地の奥にあり、旅行者が通りがかりにふらりと立ち寄るような場所ではない。ひらいた書物の意匠が刻まれた重い扉を押し開けると、眼に入るのは天井まで届く書棚の列に、ぎっしり納められた書物だけ。扱っているのは魔術とその関連領域全般――専門論文から教科書、娯楽本や実用書まで――だ。
「評判にあやまりなしか」とサージュはいった。
「たいしたものだ。ここに出していないものも?」
「書名をいってもらえれば出せるものは出すがね」と僕は答えた。
カリーの店では精霊魔術、回路魔術に関わらず、魔術に関係する書物なら何でも取り扱っている。ただし版元から直接取引する、いわゆる新刊本はめったにおかない。書籍には一点しかない貴重な手写本から最新の機械で印刷された本まで含まれるが、たとえ遠い昔に書かれた著作であっても、長い年月をかけてさまざまなひとの手に渡り、魔術実践と研究に使われるのが常だった。
おまけにいわゆる「魔術書」つまり魔術の専門書の中には、複製の数が極端に少なかったり、複製が不可能な書物もある。そういった書物は年月を経るうちにその価値をあげもするが、同時に破損したり、汚れて読めなくなったりもする。
僕の商売のひとつの軸は、そんな稀覯本を見つけ出し、調べ、修復して、求めているひとに渡すことだった。サージュは棚にならぶ書物をじろじろ眺めている。僕は作業机の後ろに回った。周囲の棚には伝票や帳簿などが整然と並んでいる。
「夏以来だな。王都にはよく来るのか?」
サージュはわずかに首を振った。両方に対する答えだろうか。彼の服装は平民の旅行者にありがちな地味な上下だが、長身と削げたような鋭い顔立ちが書棚のあいだでは新鮮だった。この店に来るのはローブを着た魔術師や制服の学生がほとんどだから、珍しく感じるのだろう。
僕はさっきの文字を記した紙を作業机の端に置いた。前回サージュに会ったのは隣国の港湾都市で、夏の終わりのことだった。今はもう道に枯葉が散っている。僕とクルトが王都へ帰ってきたのは十日ほど前のことだ。今回の王都滞在がどのくらいの期間におよぶかがわからず、クルトの職場や僕の町の店、村の子供たちの教師の手配など、片付ける用事が多かったから出立には時間がかかった。
ここまでの旅のあいだにも季節は移って、秋もすっかり深くなった。王都は真冬もめったに雪が降らないが、冬至の前までに取引をすませたい商人たちで街はにぎわっている。サージュがここにいるのも商用だろうか。それとも別の――といったことを思い、僕はつづけてたずねる。
「きみはいつもあの版元――ランディの店にいるのか? アルベルト師の著書を出している……」
「いいや。アルベルトがあのあたりに落ち着いたから編集は手伝ってるがね。昔のよしみだ。あんた、あいつに村の子供の先生を頼んだって?」
何が可笑しいのかサージュは破顔した。笑っても愛想はよくならないが、悪い顔ではないな、と僕はどうでもいいことを思った。
「それが何か? そういえばきみは昔アルベルト師の弟子だったといったな。彼に長く学んだのか」
「まあ、そうだな」
サージュは奇妙な含みを感じる眼つきになった。
「この国に来るのはひさしぶりだ。すっかり忘れていたが、あいかわらず防備の魔術で固められているな。物騒なところばかり渡り歩いていると妙に緊張するね」
「物騒って、どんなところにいたんだ?」
「あちこちさ。大陸にも長くいた。ほう、ワイズマンがあるな」
サージュは首を伸ばして高い棚の背表紙をみつめ、前触れなく話題を変えた。
「この店、大丈夫なのか」
「何が?」
「泥棒だ。防備の魔術でも仕掛けているのか」
僕は肩をすくめた。
「知人の回路魔術師に頼んでいるが、守りについては王城なみというふれこみだ。このあたりは警備隊もしょっちゅう見回りにくるから、僕が継いで以来、泥棒も押しこみもないよ」
最後については事実ではなかった。だがこの店から書物を盗もうとした者は手厚いしっぺ返しを受けることになるのは確実で、この程度は方便というものだ。防備の魔術については王立学院の教授で僕の古い友人でもあるヴェイユや、同じく友人である回路魔術師のセッキが仕掛けをほどこしている。そして僕にはクルトがいる。
「高価な本の一部は奥にある。客によっては目の毒になるからな」
「表にも意外な出物があるようだが」
「うちの客は専門家ばかりだから、期待には応える必要があるからね。ともあれうちは泥棒の心配はしたことがないんだ。そんな話が出るのをみると、そっちの店は被害によく遭うのか」
「ランディか? かもな」サージュは他人事のようにいった。
「ただあいつは稀覯本を手元に長く置かないし、大陸から流れてくるものが多いんで、窃盗団に目をつけられることはめったにない。あの街は海に近すぎて保管に向いてない」
「書物の窃盗団? 各地を渡り歩いている連中か?」
「ああ。最近は――『朝露を散らす者』と名乗る連中がいる」
「朝露を散らす者?」
聞いたことがなかった。僕はおうむ返しにつぶやく。
「知らないな」
「それならいい。この店はお宝の山だ。せいぜい用心するんだな」
サージュは言葉を打ち消すように手を振った。
稀覯本には盗品がつきものだ。世の中にはコレクターという人種がいて、その一部は欲しいものを手に入れるために手段を選ばない。どれだけ金を積むのもいとわないし、後ろ暗い事情があっても頓着しない。だから需要と供給が成立する。正当な手段で書物を所有している者から奪う者がいる一方で、奪われた書物を求める者がいる。そして彼らのあいだを取り持つ者がいる。
貴重な書物は世界各地に散らばっている――特に魔術の稀覯本は。だからそれを盗む者たちもあちこちを渡り歩く。一方でどんな手段を使ってもそれらの本を手に入れたいコレクターは流浪などしない。何しろ彼らの多くは貴族や豪商、ときに王族といった各地の有力者だからだ。そして流浪の窃盗団と定住のコレクターをつなぐのは、残念ながら僕の同業者、つまり書籍商だった。
誤解されがちだが、書物に書かれた内容を研究したり実践するふつうの魔術師は、知識を独占するよりも共有する方を好む。だからこそカリーの店が書物をひとからひとの手へ渡す場所として機能する。先代からカリーの店は盗品をけっして扱わなかった。盗品とわかれば王城へ通報し、王立学院か、王国の公的文書を保管する審判の塔が一時預かりの処置をとる。
だが王都には僕以外の書籍商もいて、全員がカリーの店と同じ行動をとるとはかぎらない。
「サージュ。ランディにいい出物があったときは僕に連絡をくれるよう伝えてくれないか。今は資金にも余裕があるし、場合によっては買い手も紹介できる。きみはどうだ?」
サージュはうなずいた。
「そういえば目録にあっただろう。ガルネリの――」と長い書名をいった。「目録には修復済みとなっていたが、どこで直した?」
「ここで」
「あんたが?」
「全部じゃない。職人に頼む場合もある。先代からやってることだ」
「なるほどね。にしてもあんた、単なる書物商にしてはずいぶんと詳しいようだが、アルベルトの本については」
「そこへ座れよ。そんな風に突っ立っていると落ち着かない」
僕は書棚の前の小さな椅子を指でさした。サージュは一瞬とまどったような顔をしたが、うなずいて椅子に腰をおろし、そのまましばらく僕らはアルベルトの著作について、またその他の書物について話しこんだ。サージュはカリーの店と競争関係にある書籍商でもないし、といって魔術師にも学者にも見えない。ある意味僕とおなじ中途半端な存在で、かつ書物狂であることでも同類だ。そのせいか彼と話すと僕はだんだん打ち解けた気分になり、話が長くなった。ここが『カリーの店』つまり僕の本拠地だから、というのもある。
いつの間にかサージュのしわがれ声も気にならなくなっていたし、僕は扉がまた開いたのに気づかなかった。書棚の間でコホンと響いた咳ばらいにはっとする。薄灰色のローブが視界の端でひらめいた。
「長居したな」
いきなりサージュが立ち上がった。
「しばらく王都にいるのか?」
「この国にはいる。また来るかもな」
「探している書物や調べていることがあればいつでも聞いてくれ。力になれるかもしれない」
その言葉は常連に対するいつもの挨拶だったが、サージュはそれを聞いてふと眉をあげた。
「あんた――その……」と机の端、僕が隅に押しやった紙きれを指さす。どきりとした。指は正確に僕のスケッチをさしていた。あの文字。
「それが書かれていた書物を?」
「いや」僕は首を振った。「もう存在しないはずだ」
サージュは目を細めた。僕は黙ったまま無表情を保った。妙に緊張した一瞬の最中に、書棚の陰でまた物音がした。
「痛っ……」
「クルト?」僕は思わず声をあげた。「どうした?」
「なんでもない。足がしびれた」
「は?」
サージュの口元がゆるんだ。つと肩をすくめてまっすぐ扉の方へ向かう。扉が閉まる音を聞きながら僕は立ち上がり、書棚の奥へ行った。踏み台に座ったクルトが妙な姿勢で膝を抱えている。
「いったいどうしたんだ?」
「ほんとうは書棚の出っ張ったところに膝をぶつけた」
「――なんだ」僕はほっとして笑った。「珍しいな。僕じゃあるまいし」
クルトは真顔で僕をみつめ「ソール、あの出っ張りは危険だ」という。
「たしかにあそこは危ないな。僕も時々ぶつかっていたよ」
僕は膝をさすっているクルトの手に触れる。
「それにしてもきみ、治療師だろう」
「痛いものは痛い」
すねたようなクルトの言葉にまたも笑いがもれた。
「明日はバイトの学生が来る。相談してみよう。きみも帰ってきたし、今日は閉店するか」
作業机に戻り、あたりをざっと片付けた。数年前までこの机には手の回らない書類が溜まる一方だったのだが、今は共同経営者のレナードが人を雇って雑務をさせているから、僕の仕事は大幅に減っている。経理の責任は家令のハミルトンにあるが、雑務や店番を交代で担当するのは学生のアルバイトだ。
アルバイトは全員が王立学院で回路魔術を専攻する学生で、それは僕が王都を離れる前からここで働いていたイーディのせいだった。彼女はとっくに学院を卒業して一人前の回路魔術師になり、今は王城の師団の塔で働いているが、「カリーの店」で働く学生はみんな彼女の後輩なのだ。
「今日は王城でイーディをみかけた」
タイミングよくクルトがいった。
「元気だったか?」
「いつも通りだ」
クルトは辟易したような表情になる。イーディは威勢のいい女の子で――もう「女の子」なんていってはいけない年齢かもしれないが――この店でクルトと他愛ない口喧嘩をしていたものだった。
「ソールに会いたがっていたが、忙しそうだ」
「明日王立学院へ行くから、ついでに師団の塔へ寄ろうかな。きみはどうだ? 王立魔術団は」
たずねるとクルトは眉をしかめる。
「毎日試験、試験だ。たいしたことはない」
僕の王都での住まいはこの店の二階にある。王都に戻ってからというもの、クルトは朝ここを出て王城へいき、夕食の前に戻ってくる。
二階はふたりで住むのに十分な広さとはいえないが、クルトは僕とここで暮らすのが当然のような顔をしていた。王城付近には彼の実家、ハスケル家の王都の屋敷もあるし、長期逗留用に居心地のいい宿をとることだってできるのだが、クルトは知らん顔だ。
僕らは店の奥の小さな台所に並んで立つ。テーブルに近くの商店街で買いこんだパンや果物、惣菜を並べて食事にする。クルトは僕の前に座ってパンをちぎりながら「王立学院って、何の用だ?」と聞く。
「ヴェイユに相談があるといわれている。学院の図書室で問題が起きていると」
スープをすくいながら僕は答えた。
「問題って?」
「紛失――もしくは盗難事件だ」
「それでソールに?」
「ああ。カリーの店から学院へ渡った書物が含まれているらしい」
実は王都のカリーの店は、魔術書の売買をしているだけではないのだ。一般に流出すると危険な書物、取り扱いに注意が必要な書物を見分け、隔離し、王立学院を通して王国の管理下におくこと。それが「カリー」の役割だった。ずっと昔、学生の頃の僕はそれを知らず、はからずも禁書に触れることになったのだが……
僕はふと思い出す。そういえばサージュは窃盗団の話をしていた。
「クルト」
「ん?」
――『朝露を散らす者』という名を聞いたことがあるか?
たずねようとして何となく僕は思いとどまった。クルトは魔術書の流通になど縁も興味もないだろうし、誰にこの話を聞いたのかと説明するのも面倒だ。明日ヴェイユにたずねる方がいい。
「いや。きみはまたこの果物を買ったんだな」
橙色と紅が混ざったつややかな果皮を撫でると、クルトの眸がいたずらっぽく光る。
「ソールはこれ、好きだろう」
「高いのに」
「柘榴と変わらないさ」
ランプの黄色い光で食卓は暖かく輝いている。
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