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第1部 朝露を散らす者 3.夜明けの斧
学院を訪れるのは何年ぶりだろう。
蝋でみがかれた寄木の床が踵でこつこつと軽い音を立てた。かすかな花の香りは庭園に咲く秋の薔薇だ。学院の中庭には一年を通して花が咲くが、学生のほとんどはこの事実を気にも留めないまま卒業する。その一部は最終学年の実習を通して、この庭の植物が精霊魔術の応用で花を咲かせているのだと悟る。
僕らが魔力と呼ぶ力はあらわれ方を変えた生命でもある。生きとし生けるものに必然的にそなわるもの。学院の花は庭師の役を任じられた者が自身の力をわけあたえた結果咲いているのだった。花を咲かせる精霊魔術は治癒の魔術に似たものだ。生命は単独では生きられない。個体の魔力は独自の経路〈力のみち〉を通して他者の魔力とつながり、交流してさらなる力を生み出す。
それでは僕はどうやって生きることができているのだろう。僕はひさしぶりに浮かんだ疑問を心の中でくりかえす。むかし学院と施療院の魔術師たちは僕を調べてこう結論した。僕自身の魔力の源泉はありえないほど小さくなり、ほとんどが失われた。魔力は魔力に呼応する。その結果僕は他者の魔力を受け取る〈力のみち〉からも排除されている、と。
同じような現象は老化や怪我、致命的な病でも起き、こうなるとふつう人は死ぬ。それでも僕は生きていて、人並みとはいえなくとも生活することもできる。最大の謎は結局これだ。僕はどうしてこの状態で、無事に生きていられるのだろう?
かつての僕ならこの謎に全力で取り組みたいと思ったことだろう。知りたいという欲望こそが僕をあの出来事へ誘いこんだのだから。理論家のヴェイユはこの謎について自分なりの仮説を立てているが、いまだ納得のいく証明も実験もできないという。
そして今の僕はこの謎を追求したいと思わない。子供のころからの僕の欲望、知りたい、謎を解きたいという欲望はいつも外の世界にあった。ところがいまや最大の謎は僕自身の内部にあり、僕はもうその深淵を探りたいとは思わない。
理由はただひとつ、怖いからだ。その深い淵、亀裂をのぞいてしまったら、何か恐ろしいことが、僕だけでなく僕の周囲の世界に起きてしまうのではないかと、そう感じてしまうからだ。
こんな懸念はただの妄想かもしれなかった。いや、きっとそうなのだろう。だが僕は本気で恐れていた。クルトと出会ってからは、特に。
教師の部屋の窓は幾何学模様の意匠で囲まれている。嵌め殺しになった明かり取りの窓のガラスにも同じ意匠が刻まれて、日が射すと壁にうすく模様の影をおとす。
「調子がよさそうに見えるが、どうだね、ソール」
アダマール師がそういって、僕はうなずきながら「ええ。海の近くの環境がよかったようです」と答えた。海辺の村でどんな風に暮らしているか。村人や教えている子供たちのこと、流行り病や嵐のときにどう対処したか、などを問われるままにつらつらと話す。学生のころから変わらず僕のことを気にかけてくれる彼に、僕はいまだに頭があがらない。
「ご家族とは連絡をとっているかね?」
そうたずねられてどきりとした。
「変わりませんが……手紙が」僕はためらいがちに答えた。
「ご両親から?」
「母からです。近況がいろいろと」
母の手紙は王都のカリーの店に届き、そこから海辺の村へ転送されたものだ。受け取ったのは夏の休暇の最後の日だが、開封したのは村を出る前日だった。なかなか決心がつかなかったのだ。
母と最後に会ったのは最終学年で僕が起こした事件のあと、施療院にいた時だった。そのあとは年に数回手紙が来たが、僕が返事を書かない――書けないままでいるうちに手紙の頻度は減り、ここ数年は一度も来なかった。
便りがないのは良い知らせ。手紙が来なくなったことを僕はそう捉えようとした。実際、今回届いた手紙はあまり良い知らせではなかった。決定的な知らせでもなかったが。
「父の具合があまりよくないそうで……治療師に診せたいのに本人が拒むと」
「そうか」アダマール師は穏やかにいった。「お父上は魔術を嫌悪しておられたな」
「ええ、とくに精霊魔術を」
口の中に嫌な味を感じた。血の味だ。いや、これは今感じている「味」ではなかった。記憶だ、そう僕は気づく。ずっと昔の記憶。
「回路魔術は暮らすのに欠かせませんが、精霊魔術などあてにはならないというのが父の主義で」
「人間は簡単に変われないものだ。それに父上のことはそなたの責任ではない、ソール」
僕はうなずく。
「はい。わかっています」
扉が二回叩かれる。
「来たな」とアダマール師がいった。彼が何も返さないうちに扉が開く。
「ソール。ひさしぶりだ」
白いローブをひるがえしてヴェイユがつかつかと入ってきた。学生時代から真面目一方だった彼はいまや厳格な教師の顔になっている。昔から考えこむと眉間に皺をよせる癖があって、僕ともうひとりの友人はそのことでよく彼をからかったものだが、厳しい教師の癖であればそう悪いものでもないかもしれない。
アダマール師が立ち上がり「ではこれで」といった。入れ替わるようにヴェイユが座った。彼とアダマール師は扉が閉まっているときから念話で通じていたにちがいない、そう僕は思った。精霊魔術どころか、魔力がない僕にはもう、念話はおろか扉のむこうの人の気配すら感じることができないが、学院の教師たちは念話でやりとりする方が普通なのだ。
「図書室で問題が起きているらしいな。盗難か?」
僕は単刀直入に聞く。ヴェイユ相手に前置きは不要で、おたがいにそれはよくわかっている。
「そう単純な話でもないから、きみを呼んだ」とヴェイユはいった。
「見てほしいものがある」
白いローブがひらめき、ヴェイユの手に革装幀の小さな本が載っている。褪せてところどころ消えかけた小さな花の文様を見ただけで何かわかった。学院の図書室ではもっともありふれた書籍のひとつで、もっとも閲覧回数が多いものでもある。事典だ。
ヴェイユは僕らのあいだに置かれた小卓に本を置き、僕は表紙をじっくり眺めた。事典類は室内閲覧のみで持ち出しが禁じられているが、長い年月にわたって数多くの学生が使ってきたから痛みもひどく、何度も修復されている。カリーの店が修復したことも僕が知るかぎり一度あった。先代のカリーの時代だ。
見返しをひらき、ページをめくる。飾り文字や挿絵をみつめ、最後のページまでめくってから、背や綴じに触れ――そして僕は眉をよせた。
「これはなんだ?」
「気づいたか」
見返しに張られた薄い革にほとんど気づかないほどのふくらみがある。僕は数をかぞえた。全部で六ヵ所。目視はほとんど不可能で、触らないと気づかないし、触っても書物の装丁に不案内な者なら不自然とは思わず、元からあったと考えかねない、そんなふくらみだった。
「修復のミスではないな」僕はページから手を放した。「工具や冶具を使う通常の手順からはありえない位置だ。もうひとつ気になることもある」
「なんだ?」
「これはカリーの店が修復した版じゃない。この事典は僕が学生のころ先代が全巻修理したはずだが、その痕跡がない」
「さすがだな」
ヴェイユはふっと笑った。
「その通りだ。まずその本には基板が仕込まれている」
「基板?」
「このくらいの大きさだ」ヴェイユは人差し指を立てた。
「もちろん回路魔術の基板だが、特殊な状況下でないと反応しないタイプのものだ。いつから図書室にあったのかもわからない。発見したのはたまたまでね。奥の部屋を確認しようとしたとき、手前の書棚にあった一冊が私の〈探知〉にかすった」
「一冊? 他にもあるのか?」
ヴェイユはうなずいた。
「同じように基板が仕込まれた本が今のところ五冊。私がきみに手紙を書いたときは四冊だった。そのあと一冊増えた」
「増えた?」
「すり替えられている」ヴェイユの口元はまた引き締まっていた。
「きみがいったとおりその版はもともと図書室にあったものではない。誰かが盗み、すりかえて戻した。すべて事典や参照文献で、多数の学生が一年中閲覧する書籍ばかりだし、教師が持ち出すこともある。代わりも手に入りやすいから、司書も深い注意を払ってこなかったものだ」
「何のために?」
「一冊では何も起きない。だが複数の本――回路を適切に配置すると魔力に反応して作動するまではわかっている。狙いについては――私は奥の部屋だと思っている」
奥の部屋。ヴェイユがそう呼ぶのは、昔は図書室の一部だったとある区画のことだ。今は閉じられ、精霊魔術の目くらましでそこへつながる通路も隠されている。一部の人間しか入れないその区画に保管されているのもやはり本だった。ただしそれは禁じられた書物、取り扱い方を知らない人間には危険すぎるということで隔離された書物だった。
「禁書を探しているのか?」
「たぶんな。保管場所を知りたいのだろう。あそこは王城の防備とおなじくらい深く隠してある。少々精霊魔術が使える程度では破れないが、そもそも存在を知っていることが問題だ。私としてはこちらが気づいたことも悟られたくない。だから細工された本はあえて図書室に戻している。この件には内部の人間が関与している可能性がある。取り扱いに注意がいる」
僕は顔をしかめる。「内部というと――学生か?」
学生時代の僕が禁書のありかを――当時は今ほど厳格に隠されてはいなかったが――知ったのはカリーの店がきっかけだった。本来触るべきでない書物にたまたま触れてしまったせいだった。
ヴェイユは僕の表情をみてどう思ったのか。気のせいか返事は僕の耳に優しく響いた。
「われわれのひとりかもしれない。教師だからといってすべての書物への許可を持っているわけではないからな」
「僕に何ができる?」
ヴェイユの指が小卓の上に戻した本の表紙をなぞった。
「これがすり替えられたとすれば元の本がどこかにあるはずだ。カリーの店に流れていないか、同業者に流れていないか、それとなく調べてくれないか。それに図書室の蔵書とおなじタイトルがどのくらい流通しているかも知りたい」
「わかった。現状をまとめたら知らせるし、今後も気をつけよう」
「当分王都にいるな?」
「ああ。クルトがいるあいだは……」僕はふと思いついた。
「そういえばクルトはどうして召喚されたんだ?」
「ハスケルか」
ヴェイユは本をローブの中にしまいこむ。
「悪いが、私はよく知らない。王城の一部に動きがあって、彼の能力が王城に必要だと主張する者がいるらしい」
「田舎で治療師をさせるだけではもったいないと?」
「たぶんな」ヴェイユはあきれたように手のひらを上に向ける。「しかし一度治療師になった者にローブを与えなおすなど、前例がない」
「ではクルトは」
僕は唾を飲みこんだ。しかしヴェイユは首をふった。
「ソール。余計な気を回すな。ハスケルは今の状態を自分で選んだ。次にどんな機会があろうとまた自分で選ぶ。あれはそういう人間だ。――重要な話も済んだし、菓子でも食べないか?」
ヴェイユは立ち上がって部屋の隅に行った。静かな空間でお茶を淹れる音が響く。湯気のたつカップと焼き菓子を並べる様子を眺めながら、ずいぶん気がきく男になったものだと僕は妙な感心をしていた。ヴェイユは古い貴族の家柄の出身で、僕と知り合った最初の頃は、自分でお茶を淹れるなどまったく縁のない環境にいたのだ。学院ですごす年月はひとを変える。
焼き菓子を食べながら僕らは他愛のない話をしたが、そのあいだも僕の意識の片隅には火の記憶が浮かんでいた。学院の図書室は一度焼けたことがある。僕が友人を失い、魔力を失い、他にもたくさんのものを失った火がそこから出た。
衝動的に言葉がうかんで、僕は口をひらく。同じ質問を前も彼にしたことがある。
「ヴェイユ、きみの研究は進んでいるか?」
「どの研究だ」
「認識問題だ。僕の記憶と……僕らの友人の名前の」
ヴェイユは僕をまっすぐみつめ、そしてまばたきをする。
「あまり」
僕は経験したあらゆる物事を記憶できる。それなのにただひとつだけ覚えられない――僕の意識で捉えられないことがある。
僕はひとりで図書室の火事を起こしたわけではない。あのとき僕と一緒にいて、あそこで死んだ友人がいる。なのに『彼』の名前と顔を僕はなぜか思い出せないのだった。
それだけではない。『彼』の名前が周囲で話されても、文字で書かれても、僕はそれを聞いたり読んだりできないのだ。僕の視界からはぽっかりとそこだけが抜け落ちる。どういう意識の仕組みによってそんなことが起きるのか、いまだに誰にもわからない。
『彼』の名前のことを考えるたびにある夜明けが僕の頭にうかぶ。僕は白い部屋の中にいて、窓の外にみえるのは森の木々だ。枝がすぐ近くに迫っている。ふいに音が鳴り響く。幹に打ちこまれる斧の音だ。夜明けの斧の残響を聞きながら、僕は僕自身がどこかに流れ出し、消えてしまうように感じている。
あそこで消えてしまったものをどうしても取り戻したかった時があった。何とか人並みの生活ができるまでになって、カリーの店を先代から引継ぎ、経営に必死になっていたころだ。クルトに出会う何年も前に、記憶を取り戻そうと僕は自分にできるあらゆることを試した。薬物を試したこともあるが、その結果は惨憺たるものだった。
僕はヴェイユにこのことを話しただろうか? いや、ヴェイユは知らないだろう。彼とこうして平静に話ができるようになったのも、実はクルトと出会ったあとのことなのだ。
気を取り直して僕は夏の休暇の話をする。南の島の沖合の海底にある遺跡の「溜まり」について。最後に起きた不気味な事件の話は避けて――そういえばあれも「泥棒」の話だ――引き揚げた遺物について説明しながら、またひとつたずねることを思いついた。
「そういえば、最近古代文字の研究は進んでいるのか?」
「私以外で? ここ数十年、はかばかしい進展はないが」
ヴェイユは意外な話を聞いたといいたげだった。
「そもそも研究自体に人気がない。古代文字なんて、教師でも読む必要があるのは数えるほどしかいないし、重要な古典は翻訳されているから、ほとんどの連中は死んだ歴史と文献学の話にすぎないと思っている。もちろんそれだけではないが、興味のある学生がたくさんいればともかく、なかなか手が回らない」
「じゃあ新しい解説書が出るなんてことも……」
「誰が書くんだ。まさか私か」
ヴェイユは苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「学生の頃は教授になれば好き放題研究ができるし本も何冊も書けると思っていたが、今はそんな自分を罵っているところだよ。新しい解説書なぞ、私が欲しいくらいだ。学生に質問されても百年前の文献しか出せないのはちょっと……でもなぜそれを聞く? カリーの店に面白いものでも入ったのか?」
「いや……」
僕の脳裏に遺物からあらわれた金属活字が浮かぶ。古代文字を裏返しに刻んだあれは、いったい誰がどこで作ったものなのだろう? どこかであの文字が印刷されていなければおかしいのに、ヴェイユのいいぐさを聞くかぎりそんなものはどこにもなさそうだ。
あれこれ話をするうちに時間を忘れ、気がつくと日が傾いていた。暇を告げて立ち上がるとヴェイユは思い出したように「ハスケルとうまくやっているか?」という。
うなずくとヴェイユは僕の足元に視線を落とした。
「守護の足環、つけているな」
それは質問ではなかった。僕の左足首にはクルトが魔力を充填した環――回路魔術の装置が嵌められている。僕自身はこの環の持つ力を感じることができないが、ヴェイユには魔力の輝きが見えているはずだ。
「一度ハスケルと師団の塔へ行ってほしい。セッキが待ってる」
僕はうなずいた。別れぎわに握ったヴェイユの手は温かく、学生のころとはうってかわって力強かった。
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