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甲斐が店の中に戻るなり、カランと扉が空いた。
「ちょっと。まだ営業時間前!」
「甲斐くん、腹減った。助けて」
入ってくるなりそう言ったのは、常連の星降夜であった。
売れっ子作家の彼の名は「ほし」が苗字で名前の「降夜」はそのまま「ふるよ」と読む。
このロマンティストは書くこと以外、普段の生活能力が著しく低い。
仕事で人前に出る時のびしっとした格好の姿と普段の姿は別人のようにしか見えない。
ぼさぼさの頭で適当なサンダルでよれよれのチノパンによれよれのロングTシャツを身につけて、商店街をふらふらしており、周りからは夜先生と呼ばれている。
「夜くん、彼女に作って貰えばいいじゃん。徹夜明け?」
「そう、徹夜明け。てかね、彼女じゃないし、学生は。お隣さん」
降夜は隣に住む変わった生業を持つ女性、仲尾あづみと懇意にしている。
あづみもたまにcometへやって来る。
二人は互いに好意丸出しで早くくっ付けば良いのにと思うが、くっ付くつもりがなさそうだ。
降夜は学生とあづみのことを呼ぶが、彼女は数年前に学生を卒業している。
「じゃあ、そのお隣さんに頼めよ」
「無理ー。学生は今、出張中だ」
「それはご愁傷様でーす」
それまで立ち話をしていたが、甲斐は降夜に席を勧めて自分はカウンターへ入って行った。
「夜くん、いつもの?」
「うん、でも。それより先にフードメニュー欲しい」
「ジンくん、いらっしゃい」
「おう、甲斐。久しぶりー」
降夜にメニューを渡していたらやって来たのは、常連であり親友の一人でもある生田迅である。
彼はカメラマンを生業にしており、人を撮るのは好きじゃないと言いながらスタジオカメラマンをしつつ、スケジュールが空けば自然の中に逃亡して風景ばかり撮っている。
「人間界へようこそ」
「俺、元々人間……甲斐、ひどい」
このやり取りはいつものことで、もはや挨拶のようなものだ。
「テキーラよろしく」
カウンターに腰を掛けながら迅が注文を言った。
「一杯目からテキーラ?」
「そう、テキーラ。嫌なことを流したい」
迅の嫌なことがなにかわかった甲斐は、敢えて彼に尋ねた。
「かんちゃん?」
顔を曇らして苦虫を潰す迅は中性的な男前が台無しだ。
「かんのやつさ、学生時代からペンネーム同じなんだよ。どっかの編集部にあいつのファンがたまたまいて、お願いされたから交換条件出したんだと」
「かんちゃんから聞いたの?」
「違う。その編集さんから連絡来た。仕事じゃ断れない」
神田は迅の性質をよくわかっている。
嫌なものは嫌でも、仕事は仕事、自分のようなフリーランスは内容はどうあれ、仕事をもらえるのはありがたいことだと思っている。だから迅は余程じゃない限り断れない。
仮に神田から先に話が回って来ていれば、断る種は準備出来たが唐突だった。
連絡をもらい、よくよく聞いた結果、神田の名前が出てきたのだ。
「仕方ないじゃん。大体、ジンくんだって他人が適当に描いたものなんて見たくないでしょ」
「それを逆手に取られて俺は最悪な気分なんだ」
一番最悪なのは俺なんだけどな、と甲斐は思った。
神田は甲斐の思い出を題材にする気だ。彼はどうしてもそれが書きたい。
性質的に、神田は彼から見た事実のままに書くだろうが、美化されたらどうしてくれようか。間違いなく、ぐうで殴りたくなることだろう。
神田が迅に出した依頼は小説の挿絵のことである。
迅は美術科を卒業しているため画力がしっかりとしており、それに加えて彼特有の味のある美しい絵を描く。
ただ、彼はひとつの題材しか描かない。だから絵描きではなくカメラマンとなった。迅の描くそれは神田の描きたい小説の世界と重なっていた。
甲斐と迅がそんな会話をしている時、降夜はお腹が空いていると言いながらも、まだメニューとにらめっこ中であった。
結局迅はいつもの酒を選び、一杯目からテキーラは諦めた。
どうせ今日は神田も来る。
彼が来たら恨めしそうにテキーラを煽ってやろうと考えた迅のトートバッグからは、スケッチブックが覗いている。
「甲斐くん、ミックスナッツ」
散々悩んでいた降夜の注文に甲斐は拍子抜けした。夜先生らしいと迅が笑い転げる。
「夜くんさ、そんなのでお腹膨れるの?」
「膨れる。それにナッツは身体に良い」
不摂生極まりない降夜の口から健康という言葉が飛び出した。
どうせあづみの受け売りだろうなと甲斐と迅は呆れた。
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