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「あと、すみませんでした。俺のせいでこんなに遅くなってしまって」
受付嬢はもちろんのこと、スタジオ内に人の気配はない。桜庭がこの時間まで熟睡した菫を待っていてくれたことは明らかだった。
「……本当に悪いと思うなら、お願いしちゃおっかな」
「……へ?」
間の抜けた声を上げた菫を上目遣いで見つめながら、桜庭がにやりと笑った。
「夕飯まだだから、付き合ってよ」
「……俺と? ですか……」
「そう、君と。……もう遅いから軽いものでいい? 食べられないものとかあったら教えて」
「いや、ないです。なんでも食います」
「決まり。じゃあ行こう」
そう言ってくしゃりと笑った顔は、やはり人懐こくて悔しいほどに格好良かった。やや強引な誘いではあるが、迷惑をかけた以上断るわけにもいかない。颯爽と歩き出した桜庭の後ろ姿を、菫は足早に追いかけた。
「すぐ近くだから」と歩き出した桜庭は、表通りから路地裏に入っていく。二、三分ほど歩いたところで目当ての店に到着した。
蔦に覆われた看板があたたかなオレンジ色に灯されている。狭い入り口の通路を抜けると、大きなダイニングテーブルが置かれた広々としたフロアに辿り着いた。店内には至る所に鉢植えが置かれ、ここが都会の真ん中だとは思えないほど緑に包まれた空間となっていた。店内には小川のせせらぎの音とともに、ハープの心地良い音楽が流れている。
前を歩く桜庭はフロアを通り抜け、テラスへと向かう。こちらも中庭としては意外に広く、小さなテーブルが数席分置かれていた。こちらも緑に溢れていて、まるで植物園のなかにいるようだ。
菫はきょろきょろと辺りをうかがう。遅い時間だからか、席には十分余裕があり、テラスでは菫たちの他に三組の女性客がお茶を飲みながら過ごしていた。
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