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席に着くとすぐに店員がグラスに入った水とメニュー表を持って現れた。自分には場違いな店にいるような気がして、どうにも気分が落ち着かない。緊張して乾いた喉を潤すようにグラスの水を飲むと、清々しい檸檬の香りがした。
こんなお洒落な店だから、カタカナ表記の意味不明なメニューなんだろうな、と恐る恐るメニュー表を開くと、「本日の定食」という写真は拍子抜けするくらい「和」な定食だった。むしろ渋すぎるだろ、どうみても田舎の定食屋だろ、と突っ込みたくなるような質素さだ。
「日替わりでいい?」と桜庭に訊ねられ、「あ、はい」と首を縦に振る。
店員を呼び、注文を済ませた桜庭がグラスの水を一口飲み、菫を見つめた。
「見た目地味だけど、ここの定食すごく美味しいんだ。深夜までやってるから、仕事の後に寄るのに丁度いいし」
「確かに、いい雰囲気の店ですね」
「あのさ、敬語使わなくていいよ。いまはレッスン中じゃないし、だいたいそんなに歳変わんないし」
苦笑いしながら、桜庭が言う。とは言われても、急にタメ口に切り替えるのは難しい。しかし桜庭がそう言うのだから、仕方なく言葉を改めた。
「……えっと、桜庭さんっていくつ?」
「二十五」
「え? 意外」
「そんなに老けて見える?」
不服そうに眉をしかめた桜庭に、違う違うと首を横に振る。
「そうじゃなくて、落ち着いてるし、先生って言うからもっと年上なのかと思ってた」
「落ち着いてるのは吉志くんも同じだと思うけど」
「俺はただぼんやりしてるだけだよ。……今夜だって相当恥ずかしい事してしまったし」
菫がそう言うと、思い出したのか、桜庭はまた少し笑った。
「仕事、忙しいの?」
「うん、まだ二年目だから仕方ないけど、毎日残業残業で、正直おかしくなりそうなんだ。疲れすぎてよく眠れないし、飯は喉通らないし」
知り合ったばかりの男に話すようなことではないと、頭では分かっていた。しかし桜庭の穏やかな声となんでも受け入れてくれそうな落ち着いた雰囲気に、甘えてしまったのかも知れない。気がつけば中道さんに紹介されてヨガスクールを訪れた経緯をすべて話していた。桜庭は時折相づちを打ちながら、菫のたどたどしい話に口を挟むことなく最後まで聞いてくれた。
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