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「嘘つき」
「いや、本当に」
「全然信じらんねえ」
「どうして? ……だって僕は物心ついたときからずっと踊っていたから。踊りがすべてだったから、恋愛のことなんて、これっぽっちも考えたことなかった」
「……」
遠い目をして、もの淋しささえ感じる静かで澄みきった声で、そんな風に答えられたから、菫は口出しすることもできず、口を噤んだ。
「でも、……そうだな、昔、すごく憧れてたひとがいた。今思えば、あれが初恋だったのかも知れない。……自分でもよく分からないけど」
まるでひとりごとのようにそうつぶやいた後、なにかを吹っ切るようにふっと息を吐いてから、多季は菫の顔を見上げてきた。くるりと目を輝かせた、いつも通りの多季の顔に戻っている。
「いまも退屈?」
「え? どうして?」
「だって、食事したり、買い物したり、結局は元カノと同じようなことしてるだけじゃん。……正直つまんない?」
「いや、絶対にそれはない。すごく楽しんでる」
菫は即答する。多季とこうやって過ごす時間を、そんな風に感じたことなど、一瞬もなかった。むしろ多季に会えることを心のよりどころとして、つらい日々をなんとかやり過ごしているのだ。
「それなら良かった」
そう言って微笑む多季の顔を見つめる。この顔、好きだなあ、と思う。
そう、好きなのだ。多季の顔も、匂いも、レッスン中の穏やかな声もしなやかな身体つきも、全部が全部好きで、多季と過ごす時間のすべてが、楽しくてたまらないのだ。
その夜も終電の時刻まで一緒に過ごし、駅の改札口付近で別れを惜しむようにいつまでもふたり佇んでいた。最後におたがいの連絡先を交換し合って別れる。
この感情は、いったいなんなのだろう。考えれば考えるほど、菫には分からなくなる。分からないけれど、ひとつだけ確かなのは、多季と、ただ一緒にいたい、それだけだった。
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