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「……あー」  ふたたび多季のことを思い出して、菫は頭を抱える。すこし眠って心が落ち着いたせいか、昨夜のような激しい動悸はない。しかしそれとは別に、菫は心に引っかかるものを感じていた。  昨夜の別れ際のことだ。菫が「多季の踊りが大好きだ」と告げた時の、多季の表情。  ほんの一瞬だったが、多季はとても険しい顔つきだった。必死で痛みを堪えるような、ひどく苦しげなあの時の多季の表情が、菫の脳裏に焼き付いたまま離れなかった。  部屋の掃除や洗濯を済ませてから、ノートパソコンを開く。床にマットを広げ、入れっぱなしのDVDを再生した。  目を閉じて、多季の声に耳を澄ます。低く、優しく穏やかなその声に、ほんのすこしだけ心臓が高鳴ったが、深く呼吸を繰り返すうちに、次第に落ち着きを取り戻した。  DVDの内容は完全に覚えてしまっていたから、画面を見ずに声だけに従ってヨガに集中する。緊張と極度の疲労せいか、身体がごりごりと音がするくらい強ばっていた。その強ばりをゆっくりと解しながら、心地良く身体を伸ばしたり縮めることを続けた。昨夜のことは一切考えず、ただ、いまこの瞬間に集中する。  ヨガを終える頃には頭が深くリラックスして、心地良い疲れと眠気に満たされた。ベッドに横たわり、しばらくその感覚を味わった後、結局自分は多季もヨガも好きなのだ、というシンプルな結論にたどり着く。  昨夜は興奮していて、ただ多季から逃げることだけしか考えられなかった。  しかし多季への恋心を自覚したいま、やるべきことは、もっとほかにあるのではないか、と思う。  好きだという気持ちを一方的に相手に押しつけたり、恋する自分を憐れんだり、あるいはその気持ちから逃げ出すことは、とても簡単なことだ。しかし、そういう狡くて身勝手な方向に、自分の気持ちを持っていきたくはなかった。ひとりの人間として、そんな生き方を選択したくはなかった。  別れ際の多季のあの表情が、どんな意味を持つのか。菫には分からない。それを無理に聞き出そうとも思わない。ただ、多季への恋心を自覚したいまだからこそ、多季が抱える痛みや苦しみに寄り添いたいと願う自分の心に気づく。    そうなると、答えはひとつだ。  多季からも、自分の心からも逃げない。そう決めて、菫は自分自身に言い聞かせるように、大きく深く頷いた。
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