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子どものころから「女みたい」と散々からかわれてきた自分の名前。年齢が上がるにつれ、「変わった名前」「めずらしいね」などと言われる言葉は変化したものの、大抵は揶揄のニュアンスが含まれている。物心ついてから一度も好きだと思えなかったその名前を、男はこともあろうに「素敵」だと言ったのだ。トラウマを刃物で刺されるような出来事に、極度の恥ずかしさと、苛立ちにも似た感情が同時に込み上げてくる。
「……そんなことを言われたのは生まれて初めてです」
感情を必死で抑えながら、抑揚なく答えた菫の様子をまったく気にする風でもなく、
「そう? でも僕は素敵だと思う」
男はにこやかに、しかししっかりと菫の目を見据えてそう言った。
それ以上名前について触れられるのは嫌だったので、「あの、まったくの未経験で身体もめちゃくちゃ硬いんですけど、本当に大丈夫でしょうか?」と訊ねた。
「大丈夫。ここの生徒さんは若い女性が多いけれど、なかには七十歳以上の女性や、中年の男性もいますよ。そしてみんな最初は未経験だけど、毎回のレッスンをとても楽しみにお越し下さるんです」
こちらへ、と講師直々に案内される。
「ここが男性更衣室。ロッカーに荷物を入れて、鍵は必ず掛けてくださいね。着替えたら右手奥のスタジオへどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ。……ここだけの話、生徒さんは圧倒的に女性が多いから、完全アウェイなんだ。だから今夜吉志さんがここに来てくれて、実はすごく嬉しい」
そう言い残して、男はさっと更衣室を出て行った。
手早くジャージに着替え、背後の鏡で自分の姿をちらりと見つめる。のっぽだけが特徴の、平々凡々とした容姿。桜庭のように、気が利いた台詞を口に出来るような社交性などまったく持ち合わせていない。
男は笑うと目尻が下がり、くしゃっと人懐っこい顔になる。くしゃくしゃ顔でも格好いいって、世の中本当に不公平だよなあ、と思う。
さきほどの名前の件を、自分はまだ気にしているのかも知れない。桜庭さえ現れなければ今頃は晴れて自由の身だったのにと、逆恨みだとは重々承知の上で、それでも彼に対するもやもやとした感情がいつまでも消えなかった。
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