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1.プロローグ
フランス語の会話の中に割り込んで来る女性なんて初めてだった。しかも、条件法を使って、丁寧に話しかけてきた。突然のことで、僕もエリックも、声の主の方を見返した。
よく聞こえなかったので、「パルドン?」とエリックが訊きかえすと、彼女は、「その男性用の歌詞カード、私持ってます。」と言った。
その彼女の細く高い声の美しさと、キラキラした目の輝きと、清楚な服装に思わず目を見張った。セミロングの少し茶色い髪、つぶらな瞳、白い頬と見事にコントラストする真っ赤な口紅、白いレースのスカートにグレイのコットンセーターに黒いジャケット、なんて麗しい表情と、なんとセンスの良いコーデなんだと。
「あぁ、話、聞こえてたんですか。」と僕が頭を掻くと、
「だって。」と彼女は、わかるでしょ、という表情をする。
「こいつ、声が大きいから。」とエリックが言葉を繋いでくれて、ほっとした。
僕たちは、ちょうど、草月ホールの階段の踊り場にいた。シャンソンのコンサートが終わったばかりで出口に向かっているところだった。彼女の声掛けは、僕が「バラ色の人生」の男性用の歌詞を探しているという話を受けてのことだった。
僕は喉に渇きを覚えた。ホールにずっと座って歌を聴き続けていたからだと思った。で、すこしかすれた声で彼女に尋ねた。
「その歌詞って、イヴ・モンタンが歌ったものですか?」
言った後で、なんて陳腐な質問だろうと後悔した。エディット・ピアフが「バラ色の人生」を歌っていた時、イヴ・モンタンと恋愛していたのは、ちょっとしたシャンソンファンなら誰でも知っていることだから。
ところが、彼女は、「はい、お察しのとおりです。」と、まるで私の推測が鋭かったかのような気配りのある答え方だった。
男ってのは、不思議なもので、美人に対しては警戒感が薄い。できるだけ長い間関わっていたいという感情が働くからだろうか。それで、出口から数歩進んだ処で立ち止まり、僕の方から自己紹介をして、エリックがフランス語圏出身のカナダ人であることも付け足した。
彼女の方は、少し沈黙した後で、「さおり・あやせ」だと名乗った。
僕は、容姿と同じで名前も綺麗ですね、と言おうとして、口を噤んだ。そういう軽率な発言でこれまでも何回か相手を黙らせてしまった経験があるのを咄嗟に思い出したから。相手はフランス人女性ではない。
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