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それから暫くは、姉妹のことは忘れていた。いや、忘れたのではなくて、できるだけ避けて生きていた。
ところが、月日は巡る。アキラからライブに来ないか、との誘いが来た。彼は、奇数月に、あのさゆりさんと出逢ったシャンソンバーでライブしている。あれから、ちょうど2か月が経っていた。その日は、開演の前に、僕がオーナーの前で得意な一曲を歌い、出演できるかどうか判断してもらう、いわゆるオーディションの日だった。だから、いつもより1時間以上早めに店を訪れた。
あの日は、確か雪模様だった。3月になったので、もし雪が降ったとしても、直ぐに消えてしまうような霙なのだろう。そんなことを考えて、入口のドアを開けると、不安げな顔のマスターが僕の顔を見つけて、少しホッとしたように表情を和らげた。
「あっ、良かった、庄司さん。さゆりさんのお友達だよね?」
「どうしたんですか?」
「それがさ。彼女、時々情緒不安定なんだけど、今夜は、特別おかしいんだよ。独りでなにかぶつぶつ呟いて、時々叫んだり。」
「えっ!」
僕は、おずおずと、さゆりさんに近づいて行った。
ピアノの前で彼女は、目の前の誰かと口喧嘩しているみたいだった。僕が直ぐ傍に近づいても、気が付かない。
耳を澄ませると、二つの声色が入れ違いに聞こえる。
「どうして、そんなことできるの?お姉ちゃん。」
「どうしてって、私の好きなようにしていいでしょ。」
「だめよ。」
「何が? 私は、歌の方がピアノより好きなのよ。」
「それじゃ、暮らしていけないから、あたしがピアノ弾いてるのよ。」
「よく、言うわ。妹だからって、いい加減なこと言ったら、承知しないわよ。」
僕は、唖然として話を聞いていた。
こんな、こんなことが。
吐き気がして、目がくらくらした。頭が揺れて、彼女のポートレートが二重に見え始めた。輪郭があいまいになって、彼女の中からもう一人の彼女がはみ出てきて、遊離しそうな錯覚に陥った。
何度も目を擦り、何度も頭の前の部分を拳で叩いた。
さえりさんの高く透き通る声と、さゆりさんのドスの利いたような低めの声が交互に聞こえてくる中で、僕は、次に何をすべきか、ショックで麻痺した頭で考えようとしていた。
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