丸い空

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「慶介・・・慶介・・・」  呪文を唱えるように繰り返す男の名前は、真登香がこの世に残した未練。死んでから1年が経っていること、そんな自分の存在が何者であるかということを考える余白がないほど、慶介を想っていた。  岩肌がむき出しの壁に挟まれた谷底は、真登香が両手を広げられる程度。見上げると井戸の底から覗くような丸い空が見えた。 「ここにいるよ」  あの日突風に弄ばれ、尾根から滑落した真登香は、手繰り寄せられるようにここへ落ちた。岩肌を登る体力もなければ、それを掴むための腕も折れていた。 「慶介助けて」  降り注ぐ雪の粒が大きくなり始め、膝が埋まる。全身がそうなる前に、丸い穴が先に塞がってしまうだろう。 「誰でもいいから助けてよ。お願い・・・誰か」  真登香はしゃがみ込んだ。身にまとった冷気は血が通っていないせいだろうか、熱を持たず、気力をも失っていた。  雪と同化したように動くことを諦めると、さらに雪が降り注ぐ。その勢いは増すばかりで、滝のように流れ込む。なのに、体は埋もれる気配がなかった。見上げると、丸い穴は塞がるどころか広がっているように見えた。  でも、実際は違った。穴との距離が近づいていた。流れ込んだ雪が真登香の体を押し上げているのだ。井戸の底に落ちた枯れ葉が湧きだした水面に浮かぶように、真登香は雪の上に座っていた。
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