丸い空

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「駅でいいから」  山へ登る前日の夜。慶介から電話を受けた真登香は、そう答えて家までの迎えを断っていた。それは慶介がどこぞの女との婚約を結んだからだった。  翌朝目覚めたのは午前5時。待ち合わせの時間からすでに1時間も過ぎていた。言い訳が定まる間もなく電話が鳴った。慶介からだった。  30分以内に来なければ置いていくって突き放されて、謝る前に急げと電話を切られた。将来仕事に支障をきたすほど抜けた性格だからと、慶介は日ごろから父親みたいに厳しかった。周囲からしてみれば冷たいと思われるようなことでも、真登香にとっては特別を感じられる関係性だった。  さすがに眉毛くらいは描いてから家を出て、マンションのエントランスを飛び出した。停まっていた車がクラクションを鳴らす。まさか慶介だとは思わなくって通り過ぎると、窓から顔を出した慶介に名前を呼ばれた。駅まで来いって言っていたくせに、わざわざ家まで来てくれていた。  そんな甘やかすようことはこれまでありえなくって。素直に喜んでしまった真登香が手を振ると、早くしろって怒られて、急いで助手席に乗って機嫌を伺った。いつも通り怒っていた。それでもアクセルを踏む前に後部座席に手を伸ばして、掴み取った紙袋を真登香の膝の上に置いた。太ももに温もりが広がった。  中身は大好物のベーグルとミルクティー。慶介の優しさは嬉しいけれど、どうも座り心地が悪い気がしてシートベルトを締め直した。すると、座席に長くて茶色い髪の毛が目に留まった。真登香にそれを咎める資格はない。慶介の車の助手席は半年前までは真登香の指定席だった。こんな気持ちになるのなら、好きだってことくらいは言っておくべきだったと、後悔と一緒にベーグルを飲み込んだ。
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