ミスリード

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『ナ・ニ?』  声が出せないので、大きく口を動かす。 「晴さん…どう、しましょう……」  電話中の私に申し訳なさそうに、それでいて困っています、助けてくださいとベソをかく顔が余りにも素直すぎる田神。  月島は?というと談笑している。ずいぶんと楽しそうに。  中腰で電話をのぞき込むとそこには4ケタの内線番号にローマ字表記の名前。MAI?あぁ、麻衣ちゃんね。って、真昼間に受付と何を語らう必要がある!? 酔っ払い事務員、そんなに余裕があるならデロリアンをカーセンサーで探せ!!  今度は痛い腰をうーんと大きく伸ばし、前方を覗き見る。そこには男性陣の丸い背中。そして田神の外線は点滅。保留状態。  誰も捕まらないか…  午前中は時間外に報告された新規事故報告と既存(きそん)案件の対応。その後昼休憩を取り、午後(いま)は各々が持つ一番厄介な案件に取り掛かっている。  仕方がない。話を伸ばす。小野原には「しかし、ですね」に食いついてもらう。相槌を打ちながら一旦、田神のクレームへ。書類を見せるように机の紙を指差し、ジェスチャーで伝える。  おずおずと差し出された書類を受け取り、事故状況、日時、相手の名前と保険会社、怪我の有無をザッと確認。事故報告書には処理に必要な情報があらかた記入されてあった。  信号のない交差点。出会い頭の事故。こちら側に停止線あり。  過失割合はこっちが8。あとは詳しい状況次第。相手保険会社も出てきている。被害者の担当は以前お世話になった椿(つばき) (すぐる)。  椿はこの業界で有名だ。主に女子から絶大な支持を得ている。受話器越しに聞く椿の艶のある声色が女子の逞しい妄想をグリグリと刺激し、一時の癒しに(あずか)れるんだとか。業界内、病み女子多し。  年齢的にも能力的にも現場から完全に退いてもよさそうな椿だが、たまにこうやって一担当者として現場に顔を出す。ちょっとした気晴らしと現場に活入れだろう。  しかしこれはもうラッキーとしか言えない。勉強させてもらおう。椿に甘えよう。  こちらの方向性は即決だが、それでもまだ「どうしましょう」の意味は謎のままだ。田神は相変わらず小動物のようにカタカタ震えている。首をかしげると、 「0《ゼロ》主張してます」  田神は震える手を合わせ、祈るというか、拝むというか。とにかく神様に縋るように全力で私に助けを乞う。
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