郊外へ

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郊外へ

その日のリサイタルはそれで終了した。 せっかく来たのに、噂とは違うじゃないの なかなかスリリングなリサイタルだった あんなに胸にくるヴォカリーズを聞いたことがない! 口々に感想を言い合う客の間をすり抜けて、波音と西野は沖島の控え室に向かった。しかし『疲れているようだ』と彼のマネージャーに拒まれて沖島の元には通してもらえなかった。ソファに転がって寝てしまったらしい。 結局コンサートは『成功』という評価を得て終わり、翌日のネット新聞の音楽欄はその記事で賑わっていた。 「死に取り憑かれた沖島昴。恋人に救われる」 「声に出して読まないで」 不愉快な表情で、波音は腕をきつく組んだ。西野はスマホをボディバッグに入れ、椅子に深く座る。一体何枚持っているのか、今日も真っ黒な上下の服。 「とにかく、小山内に来てもらって良かった」 さすが俺、と自画自賛する彼に、波音は溜め息を鼻から吐いた。 二人は今、沖島のマネージャーとアポイントメントを取ってカフェで待ち合わせしている。彼も記者の対応に追われて忙しそうだ。コンサートの後は毎回忙しいが、この度は取り分け大変そうだ。 「俺はあいつのマネージャーなんて、絶対やりたくないね。振り回されて大変だ」 西野の言葉が終わらないうちに、短い赤毛の男が扉を開けて店に入ってきた。 「ヘニング」 彼は西野の声に気付くと、速足に近づいてきた。 40代の彼は、ドイツが世界に誇る指揮者アヒム・シュトルツェが、愛弟子の沖島に付けた有能なマネージャーだ。 がっしりとした大きな体に四角い眼鏡。几帳面で真面目な彼は、破天荒な沖島(ピアニスト)に振り回されて困り果てることも多々あるが、面倒見が良く、兄のように彼に接していた。 「ケイジ、ありがとうございます。今回は全く、どうしようかと思いました。ハラハラしました」 「お疲れ様、ヘニング」 西野と彼は多少面識があるようで、まず二人が挨拶を交わした。
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