【試し読み】1.俺を抱いてください

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 雲行きが怪しくなってきたのは、瑛介の通い妻生活が二ヶ月目に突入したある日のこと。  まだ六月だというのに、異常に暑い日が続いていた。日が暮れたあとも蒸し暑さはどうにもならず、汗ばんだ肌に張り付くシャツのあまりの不快感に、一志は帰宅後一直線にバスルームに向かった。  さっとシャワーを浴び下着一枚で出て行くと、いつの間に来ていたのか瑛介がキッチンに立っている。 「おう、瑛介。来てたのか?」 「うん、カズくんお疲れさま。お邪魔してまーす」  仕事帰りの瑛介が知らぬ間に部屋に上がっていることも、最近ではそうめずらしくない。 「お前もご苦労なこったい。こんな頻繁に来る必要なんてないんだぞ。飯食わないくらいじゃ、死んだりしねぇんだから」  夕飯の支度をしているらしい瑛介を横目に、一志は冷蔵庫からビールを取り出しながら言った。  キッチンに立つ瑛介はジャケットを脱ぎ、ワイシャツの上からエプロンを着けている。フリルをふんだんにあしらった白いエプロンは、瑛介が持ち込んだ私物だ。一八〇センチをゆうに超える立派な体躯の瑛介に、白いフリルのエプロンという取り合わせは、似合わないというものではない。あまりの悪趣味に最初こそ文句をつけていた一志だが、その文句も三回目あたりで億劫になりやめてしまった。どうやら本人は気に入っているらしく、注意したところで聞きはしないのだ。 「いいの。俺がしたくてしてるんだから」 「ならいいんだけどよ……」  瑛介が飯を作ってくれること自体に異存はない。この男の作る飯は何を食べても美味いのだ。――ただ、わざわざ自分の時間を削ってまで飯を作りに来る、その行動が解せないだけで。  釈然としないまま一志はビールを呷った。その様子をチラチラと横目で見ては、瑛介はなぜかモジモジしている。「それよりカズくん……」と、恥じらいながら、いったい何を言うのかと思えば。 「ねえ、ちゃんと服着な。風邪引くよ?」 「は? やだよ、暑い」  一志はその一言で一蹴した。  昔から、夏場は風呂から上がったら寝るまで下着姿で過ごすのが習慣だ。そんな注意は今更だった。「こんな暑いのに、風邪なんか引かねぇよ。それより今日の飯、何?」と、瑛介の手元を覗き込む。 「だから……目のやり場に困るんだってば……」 「え? 何――」 「もうっ。カズくんのバカ!」  突如、グレープフルーツのような爽やかなシトラス系コロンの香りに包まれる。  抱き締められているのだと気付いたのは、しばらく経ってからだった。 「え? 何?」 「もう、いったい何の拷問だよ。俺はカズくんが好きなんだってば! 昔から言ってるだろ!」 「そうだっけ?」 「そうだよ! カズくんが本気にしてくれないだけで、俺はもうずっとずっーと! カズくんが好きなの! 幼馴染とか友達とかそういう括りじゃなくって、性的な目で見てるの! だから、そんな無防備な姿見るとムラムラするんだってば。もしかして、わざとやってるの? 俺、誘われてる?」  コロンの香りにわずかに汗の匂いが混じり、思いがけず性的な気配を感じる。  一志はギクリとし――思わず動揺した自身にさらに動揺した。 「違うから安心しろ」と、結局最後は平常心を装い、瑛介の胸をぐいと押し返す。  意外にも、瑛介はすんなり離れていく。  いとも簡単に拘束から逃れた一志は「ビールが(ぬく)くなるだろう」とすげなく文句を言いながら、缶の残りを呷った。
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