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【試し読み】1.俺を抱いてください
「ねえカズくん、一生のお願い。俺を抱いてください」
仕事を終え、疲れ切った一志が自宅に着いたのが夜の八時。マンションの玄関で出迎えたのは、ワイシャツにエプロン姿で土下座をしている幼馴染だった。
――何がどうしてこうなった。
まったくの予想外に一志は激しく動揺した。身長一八〇センチを超える屈強な体を縮こまらせた彼の、そのぱっちり二重が心なし潤んで見えたのだ。
ただし、動揺したのは本当に一瞬だけ。一瞬の躊躇のすえ、一志は何事もなかったかのように振る舞うことに決めた。
「お前まだそんなこと言ってんの。なぁ、それより今日の飯、何?」
学生時代、創作居酒屋でキッチンのバイトをしていた瑛介は妙に料理が上手い。
一方、一人暮らしに困らない程度にしかやってこなかった一志にはその程度のものしか作れない。平日の夜に〝真鯛のカルパッチョ バルサミコソース〟なんて作らないし、ふわっふわの出汁巻玉子に大根おろしを添えたりもしない。バルサミコ酢なんて買った覚えもないから、きっと瑛介が買ってきたのだろう。こうして見覚えのない調味料が知らぬ間に増えていく。
「あーあ、今日もダメだったかぁ」
ダイニングに向かい合って座った瑛介は、冗談とも本気ともつかない調子で箸を咥えて膨れっ面をしている。
約三ヶ月前のことだ。別れた彼女がこの部屋を出て行くと、瑛介は待ち構えていたかのように一志から合鍵を奪い、こうしてたびたび食事を作りにやってくる。
「あっ! あまりの大根、明日の朝ご飯用に味噌汁にしておいたよ。カズくん朝抜くこと多いからさ。ちゃんと食べてね」
――彼女かよ。いや、彼女よりすげーわ。
新卒で入社した大手輸送機器メーカーで研究開発の仕事をしている瑛介は、国内外問わず出張も多い。一志よりもずっと多忙なはずだが、この男は不思議なほど足繁くやってくる。生まれたときからの付き合いである瑛介との時間は気負わなくていいし、何より飯も美味い。せっせと部屋に通ってくるのも、結婚まで考えていた彼女にフラれた一志を、瑛介なりに慰めようとしているのだろう。別段拒否する理由も見当たらず、好きなようにさせよう――と、そう思っていた。
少なくとも、最初の一ヶ月は。
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