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幕《まく》開《あ》き
夕刻を知らせる梵鐘の音が、磨き抜かれたような鉄紺の空に広がる。大寒を迎えてから三日、悴んだ空気が研いだ月は細く、星は震えていた。
古い居宅ばかりが並ぶ静かな住宅街はとっくに夕闇に沈み、あちこちから温かな明かりが漏れていた。澄んだ冬の匂いに混じる夕飯の温もりが、冷たくなった鼻先を掠める。
人様の家から漂うクリームシチューの匂いに急かされて、宝木斎はより一層必死に足を動かした。腰に届くお下げの先が歩調に合わせてぴょこぴょこと跳ねる。
急ぐ用事もなく、帰宅するだけなのだが、何せこの寒さだ。ブレザーの上の厚いコートは物足りないし、三桁デニールのタイツに包まれた爪先は氷のよう。冴えた空気がマフラーからはみ出した耳の先に噛み付いている。
暖房に当たりながらココアでも飲みたい、というのが斎の偽らざる本音だった。
しかし残念なことに、良く言えばおっとり、悪く言えばトロ臭いと表される身だ。斎にとっての最速歩行はたかが知れている。まして速足になったところで推して知るべし。小走りになろうものなら転倒必至。庇うこともできずに派手な怪我を負うだろう。よって今以上の速度を出すのは以ての外だった。
白い息を小さく弾ませて、斎はようやっと自宅に辿り着く。門扉のレバーに手を掛けようとして、やめた。ややあって、くるりとローファーの爪先を右に方向転換してしまう。
門扉を離れ、自宅の車庫の前を通り過ぎたところで、漸く足を止めた。
目の前に聳え立つのは、切妻造の屋根を黒光りさせた白漆喰の土蔵。
斎の身長ほどもあるなまこ壁は、黒い平瓦と白漆喰の七宝紋様を並べた対照がいつ見ても美しい。軒裏まで綺麗に塗り込められた白壁が仄明るく浮かび上がる様は、さながら艶めく女性の肌だ。観音開きの土扉の上部には、軒下と同じく、火止めの唐草紋様が躍っている。少なくとも斎は、この土扉が閉ざされているのを見たことがない。
土扉の上には屋根が張り出し、その軒下には、六角形の笠を被った釣燈籠がゆらゆらと揺れている。灯された燈でほんのりと浮かび上がる影は、火袋の側面に透かし彫りにされた二匹の兎だ。二匹というより二個と数えた方が正しい気がするほど、饅頭まのようにころころ丸々としている。
一見して堅牢ながら心惹かれるこの土蔵は、斎の祖父、宝木烈が若かかりし頃、化け物との勝負を制した際、褒美として貰ったものだという突飛な逸話があった。
他にも、乱雑に扱う持つ主に嫌気が差し、逃げ出して来た文鎮や、虫の音が聞こえる空っぽの虫籠。死んだ妻を映す鏡台に恐れをなした浮気夫が失禁しながら駆け込んで来た話。
耳にした大半は聞き流すか失笑するに違いない。酒の席なら、雰囲気によっては寧ろ、洒落た与太話だと面白がるかも知れない。あるいは、孫可愛さに口にした出任せだと思うだろう。
それほどに、いずれもあり得ない話だった。
しかし、昔から斎も、三つ下の弟、常も、信じていた。
昔から剣道で心身を鍛え、殊更自分に厳しい祖父が、孫との一時の戯れのために甘言を口にするはずがないのだ。
事実、祖父が家族と認めた人間以外にその手の話をしたことはなかった。不審な目で見られ、信用を失うどころか正気を疑われると分かっていながら、好き好んで話す酔狂はいない。
異聞奇譚を語る祖父は子供の頃から奇怪なものを見聞きし、不可思議な体験をしていたようだ。
日常から少し外れた出来事に耐性があるせいか、大抵のことには動じず、小事に拘らない性格である一方、些細な変化にも気付く観察眼の持ち主だった。
そんな豪宕俊逸の祖父は、昔から何かと頼られることが多かったらしい。古希を過ぎた今でも、あちこちに担ぎ出されている。
そして、それは何も人に限ったことではない。祖父を頼りに、あちこちから色々なモノが押し寄せて来るのだ。
「ただいま」
マフラーを引き下げた斎は石階段の上から小さく背伸びをすると、白い息混じりに声を掛けた。釣燈籠の月の中で、二匹のまん丸兎がぴょこたんぴょこたん、と交互に跳ねる。
今日も今日とて仲の良い様子に、斎は小さく笑みを返した。
この釣燈籠にしても、黄昏時になると覚えもないのに燈が灯り、夜明け頃にはいつの間にか消えている、という曰く付き。当人ならぬ、当釣燈籠は己の本分を全うしているだけなのだが、怖がった以前の持ち主が祖父に助けを求め、結局手放したそうだ。
月兎の釣燈籠が仕事中なら、土蔵の蔵番もいるだろうと、斎は簡素な装飾をされた狭間格子戸を引いた。
「ただいまー。夜光、いますかー?」
途端、何かが二つ、いや二体、此方に転がるように駆けて来る。
一体は赤銅色の鬼だ。頭から突き出た二本の角に、額のも含めて三つの目を持つ。ぎょろぎょろと動く目玉は恐ろしいながらもどこか愛嬌があった。獣皮を腰に巻き付けて、小ぶりの燈籠を両手で掴み、頭の上まで持ち上げている。
その相棒は青鈍色の鬼。上向く団子っ鼻と盛り上がった頬、ゲジゲジの眉も下には真ん丸の目玉にはひょうきんさを感じる。お洒落なストールを巻くように首から上半身に小さな龍を纏って、褌を締めている。
揃って口から逆さに生えた牙と筋骨隆々とした肉体がいかにも鬼らしい。
一度はどこかで、彼等を見た覚えがあるだろう。奈良にある興福寺で有名な国宝、仏前を照らす燈籠を持った天燈鬼、龍燈鬼にそっくりなのだ。
ただし、あちらの本物の美術品とは違い、彼等は重いブロンズ製で、自前の燈籠を下ろせば斎の膝の高さよりも低い。
そして、電池式でもなければ充電式でもなく、好き勝手に動き回っては良く燈籠をどこかに置き忘れている。
その昔、国宝に深い感銘を受けた若い工芸作家が見様見真似で作ったものの、材料が足りず、中途半端なこの大きさになってしまったらしい。時を経ると、暇を持て余した小鬼達は人の目を盗んでは悪戯を繰り返し、やんちゃをするようになった。怖がりながらもうんざりしたその時の所有者が祖父に寄越したのだった。
「天ちゃん、龍ちゃん、ただいま」
煙返し石を跨ぎ、叩き土の土間に足を踏み入れた斎に、彼等は一段高い上がり框の上から身振り手振りでバタバタと応えた。
龍の小鬼は、また土蔵のどこかに燈籠を放り出したらしい。今気付いたようにハッとして、辺りをきょろきょろと見回している。
「入るならさっさと入れ。早く戸を締めろ」
寒いだろうが、と土蔵の奥から飛んで来た文句は良く響く低い声だった。
はぁい、と斎は返事を一つして格子戸を締める。飛び上がるほどに冷たい上がり框に上がると、土間に脱いだローファーを揃えた。
黒光りする床を伝って足を進めれば、その先に広がるのは物が氾濫する混沌だ。
土壁に造り付けられた棚には、滑らかな肌が魅力的な壺や細い首の一輪挿しなどの陶磁器を筆頭に、グラスや何だか良く分からない置物の純銀製、切子やインク壺などの硝子製のものが軒を連ねている。その隙間を埋めるように漆塗りの平箱や杉や桐で出来た共箱が押し込まれているが、中身が入っているかは怪しい。
床には人一人は余裕で隠れられる長持がどっかりと居座っているかと思えば、足の短い座卓も負けずに陣取っている。その上で行儀良く整列しているのは、一つ一つに四季を彫り付けた香炉だ。花台には古来の幻獣を描かれた皿が、まるで広げた扇のように並んでいる。ナントカ焼きのつくばいだか睡蓮鉢だかは、弟が夜店の金魚を放して大目玉を食らったことがあった。正月に重宝しそうな重箱の隣に、人の頭ほどもある鉄瓶が貫録たっぷりに鎮座しているあたり、祖父か夜光か、何となく共通項で区分けしようとした様子が窺える。
猫足の飾り台の上で仲良く寄り集まっているのは茶道具の棗達。十近くあるものの、大きさも装飾もまちまち。どれもころん、として可愛らしく、見ているだけでも楽しませてくれる。
一方、しょっちゅう喧嘩しているような物もいる。陶磁器製の碗だ。この土蔵には湯呑茶碗に始まり、抹茶茶碗に煎茶茶碗、ティーカップやコーヒーカップの類まで、用途も意匠も違う碗が五十以上も収められている。木製の椀も加えれば百近いとか。その場を見てはいないが、時折聞こえる擦れ合う音やぶつかる音からすると、自己主張の激しい物が多いようだ。
土蔵の上も上で忙しない。傘を被った被った電球と同じく、高い天井からはぶら下がるのは古びた御簾や墨をぶち撒けたような掛け軸、曼荼羅図に来迎図といった仏画。麻の葉紋様の提灯が気紛れに暗がりを照らしていたり、亀甲紋様の提灯が風もないのに揺れていたりする。
二階建ての土蔵は最奥には手すり付きの箱階段が据えられていて上がることが出来るのだが、多少視界が窮屈ではなくなる程度で、一階の状況と似たり寄ったりだ。
溢れた蒐集物が所狭しと屯している土蔵の中だが、それなりに秩序立っているせいか、物の多さに圧倒されて視界に煩雑さを感じても、不思議と圧迫感はない。
これだけ物があれば、さぞ値の張るお宝もあるに違いと思いきや、どれもこれも祖父が貰ったり預かったり無理矢理押し付けられたり、あるいは土蔵の前に捨て置かれていたりした物ばかり。つまり、土蔵の中にある殆どは元より、収めている土蔵自体も曰く付きと呼ばれる代物なのだ。
土蔵の中には鑑定書付きや箱書のある由緒正しい骨董品もあるだろうが、何しろこの数だ。見付けるより音を上げる方が早い。
犇めき合う物だらけの中、人一人がやっと通れるだけの道が奥へと伸びている。いくら整斉されているとはいえ、そこかしこに物が溢れているのだ。
ピーコートの裾と通学鞄に気を付ける斎だが、その足取りは慣れたものだ。奥へ向かうにつれ、痛む指先がじわりじわりと温かさを取り戻し始める。
視界が少しだけ開けた先には、黒い床の上に敷き詰められた分厚い畳。藺草の匂いはとうに失せているものの、値が張ることは一目で分かる代物だ。
その上に据え置かれた箱階段の側面に凭れて、先刻の声の主がいた。黒い洋装に真珠色の長羽織を纏った男が一人、だらしなく立膝をして長火鉢を囲んでいる。
瑞々しい濡羽の髪がつるりとした顔の輪郭をなぞって滴り落ち、右の目をすっかり覆い隠している。すっと通った鼻梁を挟んで露わになっているのは、涼しい切れ長の目。長い睫毛が隙間なく縁取り、眦に薄く紅を乗せている様が、白磁の人形めいた顔立ちに拍車をかけていた。無個性なほどに玲瓏とした容姿は年齢不詳に見えるが、多く見積もって三十に届かないくらいだろうか。
夜光、というのは、祖父が与えた仮初の名だ。
その正体は、天目一箇神。美豆良を結わず、皮履もないが、日本神話で鍛冶、製鉄を司ることで有名なれっきとした神様だ。
「今日も寒いですね、夜光。足先なんて殆ど感覚がありませんよ」
マフラーを引き抜き、長火鉢の前に腰を下ろすと、天の小鬼が燈籠の代わりに座布団を持って来てくれた。
その心遣いと土蔵の中の温かさで、凍り付いていた頬がゆるゆると解けていくようだ。
「日本の冬が暑かったら、天変地異も良いところだろう」
鼻で笑う夜光は、それで、と闇色の目で此方を見遣る。
「俺かこの蔵か知らんが、何か用か。この冷え込みの中、直帰せずに此処に足を運ぶとは、余程の物好きか暇人だぞ」
「物好きの暇人なので、様子見をかねて顔を出しました」
挨拶代わりの皮肉も慣れたもので、斎は笑って答えた。それから言葉を選び、何でもない風を装って切り出す。
「それで、あの、今日はどうでした……?」
「赤子が俺に一丁前にも気を遣うとは」
斎の心中などお見通しらしく、夜光は切れ長の左目を緩め、愉快そうに片頬で笑った。
骨張った長い指が火箸を取り、長火鉢の中に黒い炭をそっと継ぐ。パチパチ、と火が小さく爆ぜた。
「烈を頼りに幾つかやって来たが、常のごとく俺の探す物はなかった。手蔓の類もな」
いかにも蔵の主といった風格の男だが、軒下の釣燈籠やはしゃぐ小鬼達と同様、ある意味、曰く付きなのだ。
斎が産まれるよりずっと昔、女の断末魔のように風が鳴く丑三つ時のこと。
物が寄り憑く祖父の体質を聞き付け、夜光は人の姿を取って直々に訪れた。聞けば、確かに己の元にあったはずの奉納品がいつの間にか消えていたのだという。それで探している品はこの土蔵に収められていないか、噂にでも聞いたことはないか、曰く付きの物達にも話を聞きたい、と単身で出向いたのだ。
しかし、一つ問題があった。
本社ではないものの、昔からこの辺りでは有名な神様である夜光には献納品も多く多彩だ。人間より遥かに長い時間を存在している夜光は、探し物である物の姿形がはっきりと思い出せなかったのだ。それでころか、不明になった時期や理由も分からずじまい。それでも愛着を持っていたことは確かなようで、一目見れば分かると断言してみせる。
しかし、土蔵の中を文字通り引っ繰り返したものの、結果は手掛かりすら掴めなかった。
それからずっと、夜光は探し続けている。らしい。
推定なのは、斎にはそう見えないからだ。
祖父を訪ねて以来、夜光はすぐ近所に自分の分社があるというのに、こうして土蔵に居座っては我が物顔で寛いでいる。他の骨董屋や蒐集家の元を訪れている様子もない。
本当に探し出す気はあるのだろうか、と斎は常々思っている。そして、心のどこかで覚悟もしていた。
探し物の発見は夜光の満願。それは同時に、夜光の土蔵に留まる理由の消失でもあり、夜光との別れを意味するのだ。
それは明日かも知れないし、斎が死んだ後かも知れない。せめてずっと先のことであって欲しい、という浅ましい望みが、斎の胸の内にはこっそりとあった。
「どうせ、またぞろ何かしら転がり込んでくる。此処は化生ばかりの蔵だ。何もないはずがあるまいよ」
夜光は瓶台に載せていた鉄瓶に柄杓で水を注ぐと、静かに五徳の上に置いた。
それに、と薄い唇の片端を皮肉混じりに引き上げる。
「烈も健在であることだし。というか、彼奴が前期高齢者というのは詐欺じゃないのか? 二、三回殺したところで、素直にくたばらないだろうよ」
「おじいちゃんならきっと、あの世からのお迎えをバッタバッタと斬り伏せちゃいますよ」
「迎えの獄卒が大人しく死んでくれと頼み込む姿が目に浮かぶようだ」
「お邪魔しまーっす!」
破顔する斎に向かって夜光が半眼になった時、格子戸の開く音とともに、元気一杯の声が飛び込んで来た。
「あー! 姉ちゃん、やっぱりいたー!」
土間に斎のローファーを見付けたらしい。変声期を抜け切らない少し掠れた声が聞こえたかと思えば、遠慮のない足取りがずかずかと迫って来る。
振り返った斎の目の前には、弟の常が如何にも怒っています、と言わんばかりに仁王立ちしていた。
栗色の髪はふんわりした猫っ毛で、くりくりとした目が特徴的。愛嬌の溢れる顔立ちだと思うのは姉の贔屓目かも知れない。斎とは正反対に、中学二年生にして百八十センチを越える背の高さだが、身長と健康ばかりに栄養が回ってしまったと同級生からも言われるほど、その体躯は華奢というか、ひょろひょろしているというか。
つまり、薄っぺらいのだ。エノキだのカイワレだのと、夜光にもしょっちゅう揶揄われている。
飛び跳ねて歓迎する小鬼達を足元に纏わり付かせ、常が斎の目の前で仁王立ちする。身長差に加え、着座している此方は見上げるしかない。
「姉ちゃん! 帰って来たらまず、家にひと声かけてよ! 蔵にいるだろう、って思っていても、もしかしたら、って不安になるじゃん! 母さんだって心配していたんだから!」
ぷりぷりと怒る常の鼻先がほんのりと赤い。詰襟の制服姿なのは帰宅してすぐ、この土蔵に探しに来てくれたからだろう。
「ご、ごめんね、常くん」
素直に謝る斎は弱り切った顔だ。常の剣幕と思い当たる原因で、説明する気も起きなかった。
別に、と口をへの字にした常が長火鉢の前、斎の右隣にどすん、と腰を下ろした。
「無事だったから良いけどさ。後で母さんにもちゃんと謝っておいてよ」
今すぐ一緒に自宅へ戻るつもりはないらしく、天の小鬼から差し出された座布団を尻の下に押し込んでいる。胡坐を掻き、背中を丸めて膝に頬杖を突いた常は、それにさ、とむすっとした顔を隣の斎に向けた。
「事故とか事件とかだけが理由じゃないって、姉ちゃん自身も分かっているでしょ? いくら退院したって言っても、まだ本調子じゃないんだよ。姉ちゃんの体力、ミドリムシ並みなんだから気を付けなくちゃ」
「お前は気遣いたいのか、貶したいのか」
「せ、せめてミジンコ並みにして下さい」
傍観していた夜光が呆れ、斎は細やかな抗議をしつつ、しょんぼりと肩を落とした。
微生物並みの体力は否定しないが、せめて顕微鏡なしで確認されるくらいにはあるはずだ。多分、きっと。そう信じたい。
三箇日を過ぎて早々、風邪を拗らせて十日ほど入院した斎が、無事に退院したのはつい先日のことだ。今日の帰宅が遅くなったのも、病欠を埋めるべく、学校の補習授業を受けていたからだった。
元気と健康が核融合したような常からすれば、入院を余儀なくされた姉はひ弱に見えるだろう。それについて斎自身は否定しない。だが同時に、一つ物申したい。
あれだけ気を付けていながら自分は肺炎になったのに、全く用心していなかった弟が元気大爆発なのは、一体何故なのか。
勿論、常に病気になって欲しかった訳ではない。健康は掛け替えのないものだし、入院中の苦しさや辛さを思えば、こんな目に弟が遭わなくて良かったとも思う。安静にしろと言われたところで、常はきっと三分が限界だ。
だが、それはそれ。これはこれ。
不本意ながらも自覚のある斎は対策を徹底し、この冬を無事に乗り切るつもりだった。一方の常といえば、自宅ではスポーツジャージの半袖とハーフパンツ、外出時はジーンズにブルゾンを引っ掛けただけの軽装。それなのに、発熱どころか咳一つしていなかったのは一体どういう理屈なのか。
風邪対策云々の前に、常の体力、免疫力、抵抗力が斎と比較するのも烏滸がましいほどずば抜けている、と言われればそれまでの話だが、その差は歴然。月と鼈、太陽と天道虫。どうしたって埋まらない隔たりがあるのだ。天体に微生物並みと言われれば頷くしかないと分かってはいるものの、今一つ諦め切れない斎だった。
「それから姉ちゃん!」
落ち込む姉をよそに、常が畳にバシバシと平手を打ち付ける。本人は至極真面目なつもりらしいが、見事な膨れっ面だ。
「何で姉ちゃんだけ皆と仲良くしてるの! 蔵に行くなら僕にも声を掛けてよ! 僕だって皆と遊びたい!」
「除け者にしたつもりは……ご、ご免ね、常くん。今度からちゃんと誘うね」
焼いた餅のように常の頬が更に膨らむのを見て、斎は慌てて宥めにかかった。
弟が臍を曲げるとつい此方が譲ってしまうのは、昔からの癖のようなものだ。
成長した今はかなり落ち着いたものの、幼い頃から何かと病に臥せっていた斎は、親の心配や関心を独り占めしてしまうことが多かった。そのために常への申し訳なさと負い目があるのだ。
姉の後ろめたさを知ってか知らずか。年がら年中心身共に元気溌溂、たまに炸裂している常が斎を心配することはあっても、責め詰ったり捻くれた挙句の非行に走ったりすることは幸いにも今までなかった。それは面倒を見てくれた祖父の烈や、何かとちょっかいを掛けて来る土蔵の中の人ならざる物達、何より兄のように慕う夜光の存在が大きいからだと、斎自身は思っている。
「別段、遊んでいた訳ではないのだが」
呆れたように溜息を漏らす夜光は露骨に面倒臭そうな顔だ。猫でも追い払うように右手を軽く振って見せる。
「そも、常くらいの年齢なら友人との付き合いを優先する年頃だろう。俺に構うな」
「嫌だよ!」
ずい、と夜光に詰め寄った常がぶった切る。
「そんなことしたら夜光くん、もっと僕に構ってくれなくなるじゃん! そういう変な気遣いとか遠慮とかいらないから! また昔みたいに遊んでよ!」
弟の一番の本音はこれらしい。
拳を握って下唇を突き出す様は駄々を捏ねる幼児そのもの。寝っ転がって暴れ回らないだけ、分別はあるらしい。
「それでそれで! 夜光くんと姉ちゃん、何をしていたの? またじいちゃんを頼って来たやつでもあった?」
一頻り不満をぶちまけてすっきりしたのか、常はあっさりとわくわくした顔に切り替えた。うんざりしている夜光と斎を交互に見つつ、話を振っては期待に満ちた目で盛んに先を促す。
いつまでも一つの感情に引き摺られない弟は、赤子のようにくるくると表情を変えて忙しない。
何とも見事な百面相に斎が小さく笑った時だ。
格子戸を引く音がした。
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