壱《いち》ノ幕

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壱《いち》ノ幕

「どーも、今晩はぁ。お邪魔してもいーッスかぁ?」  若い男の声だった。履き倒したズボンのゴムのように、挨拶全体がダルダルに伸び切っていた。許可を求めているのは台詞だけで、返事も待たずに格子戸を閉めている。靴を脱ぐ気配がした。 「今日は千客万来なことだ」  煩わしそうに呟く夜光は、苦虫を(たば)で噛み潰したような顔だ。何が気に入らないのか、眉間に寄せた皺が山脈のようだった。 「あれ? 天ちゃん? 龍ちゃん?」  気付いた常が、箱階段に駆け上る小鬼達に疑問符を投げた。斎も見上げると、二体の小鬼は二人を一瞥しただけで一番高い踏み面に腹這いになってしまう。まるで気配を消して様子を(うかが)う猫のようだ。  宝木家以外の人間の前ではすっかり隠れたり銅像の振りをしたりする小鬼達が、あからさまに警戒している。龍の小鬼に巻き付いている小さい龍が口を大きく開け、鋭い牙を剥き出しにしているくらいだ。普段は気の良い小鬼達が珍しいことだった。  斎が土間の方へと視線を戻すと、男が面倒臭そうに物を避けながら歩いて来るところだった。不慣れとは言え、その粗野(そや)な足取りや無駄の多い動作を、土蔵の中の物達が巧みに避けているように見えたのは、きっと気のせいではない。 「スンマセぇーン。コチラ、骨董店ですよねぇ?」  ダウンジャケットから漂う煙草臭さが鼻を突く。愛想良く見せようとしているのか、現れた男は妙にヘラヘラしていた。  不自然に脱色された髪は寝ぐせなのか、そういうヘアスタイルなのか、ぼさぼさだ。成人して間もないのかも知れないが、猫背のせいでずっと上の年齢に見える。腫れぼったい瞼は浮腫(むく)み、濁った白目の中の黒目がますます小さく見える。痩せた体に着せられたペラペラのスーツが更に寒そうだが、血色の悪い顔は日没後の冷え込みのせいだけではないだろう。  声から想像していたがやはり軽薄そうで、思ったより不健康そうな客人だった。 「買取をお願いしたいんすよぉ。良い品が手に入ったもんでね。どっすか? 見てみるだけでも」  にこにこを通り越してにやにやする男は、何となく『ゲゲゲの鬼太郎』の登場人物、『ねずみ男』を連想させた。両手を擦り合わせる所作(しょさ)が似合いそうだが、脇に抱えた紫の風呂敷で出来そうにないのが残念だ。 「ここは骨董店じゃないし、大体おっさん、誰?」  小鬼達の様子で男に警戒心を抱いたらしい。常は立ち上がると、眉間に皺を寄せ、(けん)のある声で追及した。普段人懐こい弟からは考えられないほど不信感を(あら)わにしている。 「初対面のくせに許可なく上がり込んで、名前も名乗らないってどうなの? おっさん、名刺は? まさかないの? ただでさえ常識がないのに名刺もないって、大人としてどうかと思うよ」 「名刺は今、切らしてんだよ。あと、お、に、い、さ、ん、な?」  常の上背(うわぜい)にたじろいだ様子の男だったが、すぐに愛想笑いを張り付け直した。が、ひび割れた口の端が小さく引き攣っているのを隠せていない。見事に中学生に煽られている。 「あの、ここは本当に骨董店ではありませんし、だから買取も出来ません」    そう見えても仕方ないですが、と斎は困ったように言い添える。  何せ、この(おびただ)しい物の数と節操のない種類だ。祖父の事情を知らなければ勘違いくらいされるだろう。  時々こうして、この土蔵を骨董店と勘違いした人間が古美術品の買い取りを頼みにやって来る。大抵は冷やかしや最初から騙すつもりの悪徳業者で、持ち込まれる品も偽物が多い。ごくごく稀に紛れている本物には丁重にお断りしているのだ。(ちな)みに、相手が夜光のみの場合、その限りではない。  ふぅん、と鼻を鳴らすような声の後、男は考えるように腕を組んだ。納得したのかと思ったが、違ったらしい。指で顎を撫でながら、合点がいったような薄笑いを口元一杯に浮かべている。 「ココって一見さんお断りとか? 軒下に釣灯籠がある蔵で古い物を集めている、って、オレ、聞いたんだけどなぁ。外の燈籠の明かりが点く頃に店主がいる、とか何とか。まさか、こんな若い店主と可愛い従業員だとは思わなかったけど」  気障(きざ)ったらしくウィンクを飛ばす男を意に介さず、斎は首を傾げる。 「この蔵が骨董店だなんて、誰からそんな出鱈目(でたらめ)を?」 「さあ、覚えてねぇや。つーか、やっぱりココ、そういう骨董店じゃねぇか。常連客以外は相手にしないとか、そういうんでしょ? 話の出所を聞きたかがるなんてさ」 「だぁ! かぁ! らぁ! ここは店じゃないって言っているじゃんか! あんたの耳は餃子なの、おっさん!」  髪を()(むし)りそうな勢いで、常が足を踏み鳴らす。  何を言っても、この土蔵を骨董店ということに結び付けたいらしい。どうしたものか、と斎が溜息を吐きかけた時だ。 「ほぉお」  低いバリトンがその場の空気を打った。  先刻から男を綺麗さっぱり無視して、長火鉢の(うず)み火を眺めたり火箸で炭を突いたりしていた蔵の(ぬし)だったが、話は聞いて、否、聞こえていたらしい。 「(かた)りの(たぐい)かと思っていたが、成程、貴様はただの足という訳か」  夜光は薄い唇の両端を吊り上げ、紅を乗せた左目を三日月のように細めていた。闇色の瞳の奥には興味と期待の(ほむら)が揺らめいている。背筋が寒くなる凄味は、まるで姦計(かんけい)を企む悪魔だ。  悪の組織の首領のような悪い笑み、と表したのは常だった。神様だけど言い当て妙だと、斎は今でも積極的に同意する。  それは兎も角として、だ。 (足、って……)  体の部位の意味ではなく、つまりは移動手段の意味だろう。自由に動けない何かが、この土蔵に来るために文字通りに男を足代わりにしたと、夜光は指摘しているのだ。  意味するところを察した斎だが、驚くことはなかった。祖父に頼りたがる物が人間を利用して出向いて来るのは、別段珍しいことではない。そして、移動手段代わりにされた人間の大抵にその自覚はなく、物を抱えたまま思い立って寄ってみたとか、気付けばこの土蔵の前に立っていた、などと、経緯も漠然としている。  当然、此方のそんな事情など知るはずもない闖入者(ちんにゅうしゃ)はヘラヘラと笑っているだけだ。男がこの土蔵に来たのも十中八九、脇に抱えている風呂敷の中身のせいだろう。  それで? と夜光が男に流し目を投げる。 「荷車(にぐるま)の車輪である貴様は、どのような物を運んで来たんだ?」 「……へ? あ、あー、えーっと、っすね。と、兎に角、見てもらえりゃあ分かるっすよ! 一見は百聞に()かず、ってね!」  夜光の凄味(すごみ)と色気に呆気に取られていた男だったが、水を向けられて我に返ったらしい。  ずかずかと畳に上がり込むと、スーツの(しわ)を気にすることなく長火鉢の傍に胡坐(あぐら)を掻いた。あからさまに図々しくなった男は居座る気満々だ。店主と思い込んでいる上座の夜光を右手に、警戒心剥き出しの常を左手にして、ちゃっかり陣取っているのだから強気だ。  男は結び目を掴み、紫の風呂敷包みの尻を片手で支えて持ち上げると、見せ付けるようにゆっくりと自分の前に置いた。  一番遠い位置の斎は、それにつられて少しだけ身を乗り出す。  高さも幅も、三十センチより少しばかり大きい。風呂敷の上からでも分かるほど、底面が綺麗な正八角形をした角柱のようだった。  初めて見る形だと、斎はまじまじと見詰めた。  珍しい形の花器(かき)(はち)だろうか。書画骨董を納める共箱(ともばこ)がこの形なら、この土蔵に初めて来る物なのかも知れない。持ち上げた時に聞こえた、かちゃかちゃ、と硬い物が触れ合うような音も気になるところだ。 「とある筋から手に入れたんすけどねぇ、これがなかなかのシロモノっすよ! 一目見れば、いくら出したって構わねぇってほど欲しくなるぜぇ!」 「何でも良いけど、さっさと終わったらせて、とっとと帰ってよね、おっさん!」  ニヤリと笑う男に、腰を下ろした常が刺々しい視線と声をぶつける。気の済むようにさせて追い払う方向に切り替えたようだ。  それに、夜光の探している品の可能性がある以上、持ち込まれた物の確認も必要だろう。  態度は兎も角、常の判断に否やはない斎も、黙って見守ることにする。 「さあさあ! 寄ってらっしゃい! 見てらっしゃい!二目とみられぬお宝はこちら! お代は見てのお帰りだよ! ってね!」  集まる視線に気を良くしたのか、男が興奮したゴリラのように鼻の穴を押し広げ、煙草臭い口で口上の真似事を述べた。勿体(もったい)ぶった手付きで風呂敷包みの結び目を摘まみ、ゆっくりと引く。  紫の風呂敷を舞台に披露(ひろう)されたのは、八角柱の箱だった。  見ていると吸い込まれそうな表面は、光を跳ね返す黒い(うるし)塗り。水鏡のように覗き込む者を映し出している。天蓋(てんがい)にも側面にも(ほどこ)されているのは蒔絵(まきえ)だ。金をふんだんに散らしている様は、まさに贅沢の極み。八つの側面に渡ってぐるりと蒔き付けられた松の紋様が、文字通り(まばゆ)いばかりだ。  触れるのも躊躇(ためら)われる品だが、より一層近寄り難い雰囲気にさせるのが、真っ赤な組紐だ。  八角柱の箱は足の付いた皿に据え置かれていて、組紐(くみひも)は皿の底で十文字にした後、天蓋(てんがい)(うろこ)結びに整えられている。物としての揺るぎない矜持(きょうじ)が、長く垂れた赤い(ふさ)の一本一本にまで宿っているような鮮やかさ。 (綺麗……)  斎は声もなく感嘆した。  さながら豪奢(ごうしゃ)ながら凛とした貴婦人の立ち姿だ。  八角柱の箱を目の前に、口から漏れ出るのはうっとりとした溜息ばかり。男の煽り文句も納得できる品だった。 「これは貝桶だな」  心ここにあらずといった有様で夢心地だったところを、低い声が揺り起こした。  無礼にも夜光はつまらなそうに、八角柱の箱――貝桶に一瞥を投げただけだ。再び長火鉢の炭に視線を戻してしまう。彼の探している物ではなかったのだ。 「貝合わせという遊戯に使う貝を納める容器だ。江戸時代には嫁入り道具の一つとされた。しかし、貝桶は普通、二つで一組のはずだ」 「でも、おっさんが持ち込んだのは一つだよ」  何で? と常は夜光の説明を受けて、招かれざる客を睨み付ける。途端、男が絵に描いたように慌て出した。意味もなく両手を振り回し、何とか言い訳を捻り出そうとあたふたしている。 「いや! ほら! あれだ! そう! まずは一つ見て貰ってから、と思ってだな!」 「それにこの貝桶、何故風呂敷にそのまま包まれているんです?」  追い討ちを掛けるつもりはないが、斎も疑問を口にする。先刻から気になっていたのだ。 「こんな立派なものが共箱に納められていないなんて、おかしくありませんか? 共箱は中の物の名前や由来が分かるだけでなく、作者の署名や鑑定人の押印から、真贋(しんがん)を見極めるための手掛かりです。そんな重要な物が、どうしてないんです?」 「貴様、これをどこで手に入れた?」  射竦めるような目で夜光が畳み掛ける。 「盗品か」 「いやいやいやいや! そんな、まさか、ねぇ?」  男は顔の前で大袈裟に手を振ると、同意を求める目配せを寄越す。しかし、斎と常は揃って疑惑の眼差しを向けた。胡散臭い愛想笑いは何かを誤魔化している気がしてならない。 「あははは。若い店主だから押せばイケると思ったのに、参ったねぇ、こりゃ」  後ろ頭を掻いていた男は、不意にその手を下ろしたかと思うと、床に手を付き、立ち上がろうと体を捻った。大きく踏み出した足が向かおうとする先は、土蔵唯一の出入り口。  もはや、盗品であることを認めたのも同然だった。 「ちょ、おっさん!」  (ときわ)が男のダウンジャケットの端を掴んだ。背中側を引っ張られて思い切りつんのめった男だったが、此方も逃げるのに必死。ダウンジャケットを乱暴に引き寄せ、力任せに振り払おうとする。しかし腰を据えた常はその分、負荷がかかっている上、指を固く握り込んで離さない。 「ンの野郎!」  業を煮やした男がとうとう常の顔面に目がけて足蹴を繰り出した。誰が受けるか、とせせら笑う常は、ダウンジャケットを手離してしまうも、難なく避ける。 「って、姉ちゃん!?」  気付いたと同時に、常の口から悲鳴のような声が飛び出た。  今まさに走り出そうとした男の腰の辺りに、斎が体ごと突っ込んだのだ。しかも顔面から飛び込むという格好の悪さ。地味に鼻が痛い、と呻く斎は、条件反射で男の腹の前に腕を回してしがみ付いてしまった。 「この馬鹿!」  夜光が腰を浮かせる気配がした。焦ったような声だった。常ならいざ知らず、斎がこんな真似をするとは思わなかったのだろう。 「な、何だぁ!?」 「ああぁの、ま、間違えました!」  肩越しに振り返る男も困惑していたが、中腰から顔を上げた斎も負けずに混乱していた。両手は男の腹を離れたものの、体を起こそうとダウンジャケットの背中を握り締める。  逃走を第一に考えた男はなりふり構わず走り出す。引き摺られる斎もオナモミのようにくっついて離れない。正確には、手を離すタイミングを完全に(いっ)していたのだった。  あまりのしつこさに男は舌打ちすると、拳を固めて、肘鉄を振り下ろそうとした。 「離せ! 邪魔だ!」 「おい、貴様!」  夜光の怒号に驚き、斎は肘を食らう寸でのところで手を離す。途端、ごちん、と左の(こめ)(かみ)辺りで鈍い音が弾けて、頭の奥が(しび)れた。  幸いにも男の暴挙は避けられたが、鈍感な斎に受け身が取れるはずもなく、頭を床に打ち付けてしまったのだ。あまりの痛みに声も出ない。 「大丈夫、姉ちゃん!?」 「いてぇええええッ!」  駆け付ける常の声に、男の大絶叫が重なった。  くらくらする頭を押さえつつ、体を起こした斎が見たのは、赤子のように体を丸め、片足を抱えてゴロゴロと悶絶している男の姿だった。時折、片手で頭も抱えているのだから器用なものだ。  (かたわ)らでは、赤と青の小鬼達がそれぞれゴリゴリのマッスルポーズを決めている。  (ちな)みに、天燈鬼が力瘤(ちからこぶ)を見せ付けるフロント・ダブルバイセップス、龍燈鬼が広背筋を広げるフロント・ラットスプレットを披露していた。 「元は邪鬼だった其奴(そやつ)()の前で悪さをするからだ、この愚物(ぐぶつ)め」  腕を組んだ夜光が不遜に笑って吐き捨てた。傍から見ると、勇者をいたぶる悪の黒幕だ。  本物ではなくとも、小鬼達は立派な天燈鬼と龍燈鬼。その姿は仏敵である邪鬼が改心した姿だという。だからこそ、悪事を働いた男を許さなかったのだろう。  思えば、他人の敷地内の土蔵に、家人も(ともな)わず、見ず知らずの人間が、日もとっぷり暮れた時間に押し掛けて来るのはおかしい。骨董屋だと勘違いしていたようだが、男が来訪を告げた時の小鬼達の反応も道理だ。    一部始終を見ていた常曰く、タイミングを見計らっていた小鬼達が走る男の足元に飛び出し、仁王立ちしたらしい。小さい彼等が急いでいた逃走人の視界に入るはずもなく、結果、男は銅像に足を取られ、顔面から見事に転倒、そのままスライディング。  脂汗(あぶらあせ)を流して苦悶する男に、斎は小指に出来るささくれくらいの同情をした。  顔面を床に叩き付けたことより、硬い銅像に(すね)を打ち付けたことの方が痛かったに違いない。弁慶だって泣くくらいだ。最悪の場合、骨が折れている。 「いま、今! どぉ、像が、動いた……!?」  激痛と混乱で涙目の男が息も絶え絶えに呟くと、何言ってるの、と常が不可解そうに首を傾げる。 「銅像くらい動くじゃん、普通」  動かないと思う、普通。  斎は常の手を借りながら、胸中でそうツッコミを入れた。  弟の台詞は男の理解を越えていたらしい。床に転がったまま、痛みも忘れてただただ唖然とするばかり。そこに、小鬼達が男の視界の左右から覗き込むように見下ろしにかかった。銅像の彼等は当然、瞬きはしない。無感動な四つの大きな目玉が、じぃー、と微動だにせずにひたすら見続けている。それに対し、呼吸を忘れたように固まる男。  (しばら)く見つめ合う二体と一人。  膠着(こうちゃく)する空気を打破するように、小鬼に巻き付く小さい龍ががばっ、と大きく口を開けた。  それが男の恐怖にトドメを刺したらしい。  途端、我に返った男の口から悲鳴が飛び出す。先刻までの悪漢ぶりが嘘のように、甲高くか弱い絶叫だった。  バネ仕掛けのように飛び上がるや、土蔵の中を掻き分け、()けつ(まろ)びつしながら格子戸を目指す。足を庇う余裕は吹き飛んでいるようだ。慌て過ぎて土間に落ちると、革靴を掴んで()()うの(てい)で飛び出して行ってしまった。 「あの、貝桶! 忘れて、ます、よ……」  斎の呼びかけは間に合わず、土蔵の中に吹き込む夜風が掻き消すだけだった。 「放っておけ。愚劣(ぐれつ)感染(うつ)るぞ」  夜光は鼻を鳴らした後、良くやった、と小鬼達を(ねぎら)った。  感情が顔に出ない小鬼達だが、心なしか誇らしそうに見える。お互いに大きな頭の上でハイタッチをすると、礼を述べる斎と常に向かって、グッ、と揃って親指を立てる。  今後も任せろ、と言わんばかりに披露してくれた渾身(こんしん)のマッスルポーズは、頼もしい限りだった。  そもそも何故斎が男に突っ込んで行ったのかといえば、本人としては男から庇うべく、常の前に体を滑り込ませたつもりだった。  誤算は想像以上に優れていた弟の身体能力、何よりへっぽこな己の反射神経に寄るところが大きい。己の焦る気持ちと頓珍漢(とんちんかん)な運動能力がこんがらがった結果、斎は立ち上がりかけた格好のまま、イマイチのタイミングで飛び出した挙句、足が(もつ)れてすっ転んだのだ。しかも勢い余って対敵の男に(すが)り付いてしまったのだから、オチの見えた寸劇も同然である。  斎はこの時、身を以って学んだ。ピカピカに磨かれた床とナイロンタイツの相性は、大変よろしくない。 「姉ちゃんの気持ちと意気込みは分かったけど、何でそこで頑張っちゃうの。ああいう時は逃げて。あ、やっぱり大人しくしてて。呼吸以外何もしないで。本当にマジで本気で頼むから」  お願いだから、と念を押す常の台詞は懇願(こんがん)(てい)だが、声の調子があからさまに刺々しい。眉根を寄せて心配そうにしながらも、怒りを(にじ)ませているのが見て取れた。  面目(めんぼく)ございません、と斎はしょんぼりと項垂(うなだ)れる。その拍子に、頭に乗った氷嚢(ひょうのう)がごろりと落ちた。  無茶をして、己の鈍さゆえに怪我をしているのだから、目も当てられない。  あの後、心配した常が探ってみれば、案の定、斎の頭にはぽっこりと腫れた大きなたんこぶ。慌てた小鬼達がエッサホイサと救急箱を担ぎ出し、夜光に氷嚢を押し付けられたのだった。 「でも、常くんだって男の人をわざと(あお)っていたでしょう? 今回は無事だったけど、危ないことになりかねないんだから、そういうのは駄目だよ」  氷嚢(ひょうのう)を乗せ直した斎は、しかつめらしい顔で言い聞かせる。  いつもは心配されている側だが、姉として年長者として、見過ごすわけにはいかない。大抵はどうにかできてしまうがゆえに、弟の無茶無謀がどんな一大事に繋がるとも限らない。  しかし常はそんな姉の危惧(きぐ)をふん! と荒い鼻息で吹き飛ばす。 「僕は良いの! 慣れているから! いてっ!」 「お前も少しは反省しろ、(たわ)けが」  頭を押さえて振り返る常に、最年長者の夜光がじっとりとした目で右の拳を見せ付ける。上座から手を伸ばし、常の頭に教育的指導を加えたのだ。  いつの間に淹れたのか、猫板の上には水色と乳白色の湯呑が湯気を立てていた。(ほの)かにするのは、ほろ苦い抹茶の匂い。抹茶を溶かした甘い葛湯だ。  斎が手を伸ばすが、乳白色の湯呑はまるで逃げるように猫板の上をすーっと滑っていってしまう。  勿論、空気の膨張と摩擦の現象ではない。熱いからまだ待て、ということらしい。  釉薬(ゆうやく)を塗った益子焼のこの湯呑は、ぽってりしている姿が愛らしいだけでなく、気遣いもできる陶器だった。 「夜光、貝桶はどうしましょう? 警察に連絡しますか?」  湯呑から手を引き、斎は紫の風呂敷の上を見遣った。  置いてけぼりにされたはずの貝桶は、取り澄ましたような様子で黒と金の絢爛(けんらん)な存在感を放っている。  この土蔵の物達は多種多様、千差万別。祖父次第ではあるが、この貝桶が留まることに反対はしないだろう。  しかし、男本人――そう言えば、男の名前も聞かされていなかった――が盗んだのか、盗品と知っていただけなのかは分からないが、これほどの品だ。今頃持ち主も探しているのではないだろうか。  貝桶にしても、元の場所に戻りたいと思っているかも知れない。 「(れつ)に任せていろ」  すげなく答えた夜光は、涼し気な目で貝桶を一瞥(いちべつ)する。 「古い物には魂が宿る。しかし、これは人間に使われる物の分際で、人間を(そそのか)し、利用して此処を訪れた。物の道理から逸脱(いつだつ)している。この蔵の連中も大概(たいがい)だが、この貝桶もなかなかの曲者(くせもの)だ」 「ここは骨董店じゃない、って僕が散々言ったのに、あいつが全く聞く耳を持たなかったのも、この貝桶のせいなの?」  思い出したらしい常は、仏頂面で水色の湯呑を掴んだ。冷ますことなく一口啜れば、案の定、口の中へ飛び込んで来た熱さに目を白黒させている。  葛湯(くずゆ)はとろみがあるせいで、遅れて熱さが来るから注意が必要なのだ。  夜光は呆れた様子で、恐らく、と肯定する。 「黄昏時(たそがれどき)(とも)る外の釣灯籠のことを、あの男が口にしていただろう。あれは人の世に(うと)い古いモノへの、この蔵の目印だ。大方、あの下愚(げぐ)が金を欲しがっているところに付け込み、骨董店での換金だ何だと耳触りの良いことを吹き込んだのだろうよ。ともすれば、盗まれたのも何か意図があってのことかも知れないな。此処に着いても正気付かなかったのは、彼奴(きゃつ)の欲が深かったからだ」 「わざと盗ませた、ってことですか……」  しかも、被害者ならぬ被害物が、である。斎は唖然としたが、氷嚢(ひょうのう)を頭から外しながら、ふと思い出す。  誰から骨董店だと聞いたのかと尋ねた時、覚えていない、と答えた男は、嘘を()いたのでも誤魔化したのでもなかったのだ。 「その貝桶、あの男の人を利用してまで、おじいちゃんにどんな用なんでしょう? 盗品のようですし、持ち主の元に返して欲しいとか?」  さあな、と夜光の返答は素っ気ない。 「彼奴の手元から逃げ出したかっただけかもな」 「夜光くん、質問!」  手に取った湯呑に息を吹きかける斎の隣で、常が元気良く挙手した。右の二の腕を耳に付け、ぴん、と伸ばして上げる様は、まるで入学したての小学生だ。 「先刻(さっき)から貝桶貝桶、って言っているけど、何のために使うの? 中身は何? 見ちゃ駄目?」 「貝桶とは、その名の通り、貝殻を入れるための桶だ。貝合(かいあわせ)という遊戯に使う貝を納めるために使う」  矢継(やつ)(ばや)の質問に動じることなく、夜光は簡潔に答えた。長火鉢から離れて貝桶の前に胡坐(あぐら)を掻くと、見た方が早い、と二人を手招く。  神様ゆえか、物言いが不遜(ふそん)だったり時に悪役のような表情になったりする蔵の(ぬし)だが、基本的に面倒見が良いのだ。  夜光の手が真っ赤な組紐を解き、ハ角形の蓋を持ち上げる。中から取り出したのは、斎の片手で包めるほどの貝――(はまぐり)だ。それを広げた風呂敷の上に、次々と並べていく。  貝の内側には金の蒔絵を置き、その上から描かれているのは紫が(したた)る藤に、瑞々しい花弁を(こぼ)す紅梅白梅。純白の羽を広げて舞う丹頂(たんちょう)(づる)もいる。動植物だけではない。朝日に照らされた赤富士や宝の文字が書かれた()()け船が白波を走っている風景もあった。縁起物とされるものばかり。  目が覚めるようなような極彩色の中でも、特に秀逸(しゅういつ)なのは人物絵だ。  まるで古典の絵巻物を切り抜いたように、いかにも高級そうな調度品に囲まれて、華やかな十二単を広げた女性や束帯に身を包んだ男性が腰を下ろしている。  斎は授業で習ったことを(おぼろ)げに思い出していた。  屋根や天井などを省き、斜め上から俯瞰的(ふかんてき)に屋内を描くこの技法を、確か『吹抜(ふきぬけ)屋台(やたい)』というのだ。  それに、花が重なり合う時の濃淡や髪の毛のたわみ方を表す線の細さなど、小さく細かいところにも妥協が一切ない様子に(こだわ)りと矜持(きょうじ)を感じる。  綺麗に並べられた貝の数は三十ほど。持ち込んだ男の扱いから心配していたが、目立つヒビや破損はないようだった。 「わぁ、綺麗だ……!」 「貝桶もそうですが、雅やかですねぇ」  色彩豊かな貝の内側の世界に、常と斎は口々に驚嘆の声を上げた。 「俺が見たことのある貝桶より大分小さいとは思っていたが、貝の数が少ないな。その分、貝桶も貝も精巧(せいこう)で華やかだが」  夜光は感心したような口振りで、貝の一つを長い指で摘まみ上げる。  よくよく見れば、目立つ傷はないものの、ところどころ端が欠けていたり金箔が剥げたりしていた。 「年季も入っているようだし、古い家の嫁入り道具だろうな」 「先刻(さっき)は遊戯に使う、って言ってませんでした?」  斎が首を傾げると、時代を追って説明してやろう、と夜光はぞんざいな手付きで貝を風呂敷の上に戻した。 「お前達からするとかなり昔。平安の頃、清少納言の『枕草子』にもあるように、宮廷貴族の間で物合(ものあわせ)という遊戯が人気を博した。判者(はんじゃ)を立て、左右二つの組に分かれると、決めた課題の品を持ち寄らせて、組の総合点を競う遊戯だ。比べるものは多種多様。歌や絵は勿論、香りに花、その根。鳥や虫などの生き物もあった。現代でも闘牛や闘鶏があるだろう。物合とはこの遊戯全般を称したもので、歌なら歌合(うたあわせ)、花なら花合(はなあわせ)、もしくは(はな)(くらべ)といった。お前達も聞いたことがあるかも知れないな」  常は力なく首を横に振る。まるで起き抜けに政治経済の話をされたような顔だ。それに苦笑した斎がちょっとだけですが、と小さく頷いた。  歌を詠む、などと高尚(こうしょう)な趣味があるのではなく、ただ古典の授業で耳にしただけだ。  歌合とは、左右二組に分かれた歌人が出されたお題で歌を詠み、左右の一首ずつを組み合わせた一組ごとに歌の優劣を判定して左右の勝敗を競う。  古典の教師は淡々とそう話していた。その歌の優劣が詠み人である貴族の出世に関わるのだ、とも。  歌合の場は、貧乏貴族にすれば千載一遇の好機。家の盛衰が人生を決めた当時、遊びとはいえ、生きるか死ぬかの大勝負だった。  その場に担ぎ出された貴族は、さぞ生きた心地はしなかっただろう。自分なら胃痛になってそのまま捻じ切れる、と斎は貝を横目に内心げんなりする。 「その物合(ものあわせ)の一つに、貝合(かいあわせ)があるんですね」  確か、『(つつみ)中納言(ちゅうなごん)物語(ものがたり)』にあったような気がする。  そう返せば、良く知っているな、と夜光は皮肉のような響きで口の端を上げて目を細めた。  土蔵に籠っていることの多い夜光は、暇潰しと称して、図鑑や研究資料、絵草紙など、古今東西の書物を読んでいることも(しばしば)だ。 「貝合は貝の色や形の美しさ、珍しさを競ったり、その貝を題材に歌を詠んで競い合ったりした。その一方、鎌倉の頃の軍記物として有名な『源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)』にも登場するが、貝覆(かいおおい)という遊戯も盛んだった。これは旧暦の一年に(ちな)んで三百六十の貝を使う」 「三百六十個!? 貝を集めるだけでも大変じゃん!」  単なる遊びなのに、と常が文字通り、口をあんぐりとさせた。見事な間抜け面だな、と夜光が手を伸ばして顎を押し戻してやる。 「平安の頃に始まった遊びだが、上流階級の子女の間で室町、江戸まで続いた。伊勢(いせ)(さだ)(たけ)の『二見之浦(ふたみのうら)』という江戸の頃の書物によると、貝覆は現代のトランプ遊びである神経衰弱にも似た遊戯だったようだ。貝の片方を()(がい)、片方を(だし)(がい)と称して二つに分ける。数人で囲んだ座の中央に地貝を伏せて並べると、一つずつ出貝を伏せて出し、貝の形や外側の模様から合うものを探す。多く取った者が勝ちだ」 「平安時代に貝覆が始まった頃って、貝の内側に絵がなかったの?」  斎も思ったことを、常が口にした。さあな、と夜光は軽く肩を(すく)めた。 「その頃の物は残っていないようだし、俺が見たものはもっと後の時代だ。あったとしても、最初の頃はそれほど派手でも重要でもなかったろう。何せ、数が数だ」  三百以上の貝全てに金箔で飾っていたら、それだけで家が傾きそうだ、と夜光が鼻で笑った。 「先刻、貝桶は二つで一組だと言ったのは、一つが地貝、もう一つが出貝をそれぞれ納めるからだ。貝を合わせる所作から貝合と混同されたのか、いつしか両方ともに貝合と呼ばれるようになった」  長い人差し指が貝の一つを弾く。優美な女性を描かれた貝が、(くすぐ)ったそうに小さく揺れた。 「貝の中でも(はまぐり)は一対の貝殻以外は決して合わないことから、貞節や夫婦和合の象徴とされた。室町の終わり頃になると、貝桶は公家や大名家の嫁入り道具として流行した。同時に、婚礼行列の先頭で運ばれるほど重要になった。婚家に到着した時、まず貝渡しの儀という儀式が行われるくらいだ。(ぜい)を尽くした貝桶が作られ、中に納められる蛤も数が少なくなった分、派手な装飾がされた。まあ、当然の成り行きだろう」 「女の子の成長を祝う雛飾りに貝桶があるのも、そういう(いわ)れがあったからなんですね」  成程、と斎は相槌(あいづち)を打つ。 「桃の節句に(はまぐり)のお吸い物を頂くのも、夫婦和合に(あやか)ってのことですか?」 「あれは他の行事の名残も兼ねているが、まあ、意図するところは同じだ。話は逸れるが、お前達は鳥山石燕(とりやませきえん)の名を聞いたことはあるか?」  夜光は思い付いたように、右上に手を伸ばした。まるで、本棚から本を取り出すような仕草だ。ひらり、と手首を返すと、一瞬で掌の中に何かが広がった。そのまま、斎と常に差し出す。  夜光が何もない空間から取り出したのは、糸で縫い合わせた()()じの本だった。  まるで手品だ。  幼い頃から見慣れているが、いまだに斎と常は控えめながら歓声を上げ、拍手をしてしまう。種も仕掛けも全く分からない。神様だからこその芸当なのだろうか。  乗り出す斎達が見たのは絵だ。和紙の隅から隅を墨で繋いで四角に囲み、その中に細かな柄まで描かれた墨の絵と縦書きの文字が並んでいた。くずし字はその絵の説明らしいが、斎には辛うじて最初の『貝児』の漢字が分かるくらいで、その先はさっぱり読めない。 「(あやかし)の絵を多く書いたことで有名な江戸時代の絵師だ。この絵師の『百器(ひゃっき)徒然(つれづれ)(ぶくろ)』という作に、貝児(かいちご)という妖が紹介されている」  長い人差し指で示したのは、灰色がかかった(ぺーじ)だ。  障子の前に置かれているのは、豪華な貝桶らしい入れ物。そこからおたふく顔の子供が這い出て来るところだった。子供の頭の上には二枚貝らしきものを乗せていて、貝桶の(そば)にも貝が散らばっている。 「……この子供の顔、微妙に怖い」  常は顔を()らして、そう零した。苦笑する斎も否定はできない。独特な不気味さがある。 「説明には何てあるんですか?」 「訳すなら、貝児(かいちご)とは這子(ほうこ)の兄弟だろうか、だな。這う子供と書いてほうこと読む。這子というのは、這う子供の姿の人形だ。子供の()()けにもされた」  そうですか、と斎は曖昧(あいまい)に答えた。  漢字を教えられると、描かれた貝児のおたふく顔が尚更恐ろしく感じる。 「ただ、貝児(かいちご)が出る伝承は他になく、鳥山石燕の創作だとする説もある。今では貝児は、使われなくなった貝が化けて出たものだとか、あるいは、長い年月を経た貝桶から生まれたもの、などといわれている。嫁入り道具の中には母から娘へ、その孫へと受け継がれた物も多く、貝桶も同じく、百年以上の経つものも珍しくなかったからな」  話を戻そう、と夜光が華やかな貝達に涼し気な視線を落とす。目の下に睫毛の影が差していた。 「これらもそうだが、蛤の内側には、対になる貝に同じ趣向の絵を描いた。伊勢物語や源氏物語に(まつ)わるもの、上の句と下の句に分けて和歌などを書く場合も……常、聞いているか?」 「もう! 無理だよ!」  名指しされた弟は万感の思いを込めて喚いた。吐き出した分、ヘナヘナと萎れて背中を丸める。心なしか、体積が小さくなったような気がした。 「ただでさえ話が小難しいのに、姉ちゃんが蛤のお吸い物なんて言うんだもん! お腹が減った! ちらし寿司が食べたい! 菱餅(ひしもち)でも良いよ!」 「お前はもやしのくせに、食い気ばかりだな」  呆れ顔の夜光が溜息を漏らしたところで、この場はお開きとなった。  相当空腹なのか、常が何かないか、と夜光に強請り、溶けかかった氷嚢で遊ぶ小鬼達にまでせびっている。まるでカツアゲだ。    時刻はそろそろ夕餉(ゆうげ)の頃。そもそも弟は自分を探しに来てくれたのだ。  斎は急いで、しかし慎重に、風呂敷の上に並べられた貝を一つずつ貝桶へと戻す。 (もしかしたら……)  斎は手を止めることなく、ふと思った。  夜光の話からすると、この貝桶が地貝用か出貝用かは分からないが、同じような片割れが存在するという。それを見付けて欲しいとか、引き合わせて欲しいとか、そんな望みがこの貝桶に、あるいは中に納められた貝にあるのではないか。しかも、蛤が元々の組み合わせ以外とは噛み合わないというのが、何とも心惹かれる。  勿論、斎自身、そんな直感など、何の根拠もないことは十分承知している。きっと役にだって立たない。  しかし古い物には、幼い子供が血沸き肉躍る冒険に思いを()せるような、砂糖菓子のようなお伽噺(とぎばなし)に胸をときめかせるような、そんな夢を見させてしまう魅力があるのだ。 「孫のわたしが言うのも何ですが、おじいちゃんは頼りになる人です。あなたの望みは分かりませんが、きっと何とかなりますよ」  最後の一つ、桃の花の貝を手に取り、指先で縁を一撫でする。  強い想いを持つ物がこの土蔵にやって来たことは数限りない。その度に祖父があれこれと動き、時には夜光が手を貸して解決しているのを何度も見ている。  わたしも協力しますから、と斎は激励の言葉をそっと呟き、静かに貝桶の蓋を下ろした。
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