弐《に》ノ幕

1/1
前へ
/10ページ
次へ

弐《に》ノ幕

 その夜遅くのこと。  自室ですっかり寝支度を整えた斎は、勉強机の上に読みかけの本を広げて寛いでいた。そろそろ布団に潜り込もうかと顔を上げて、ふと土蔵での一幕が頭をよぎった。  たんこぶはまだ少し腫れているが大事ない。それより、あの貝桶だ。  あの美しい貝桶は、人に自分を盗ませてまで、祖父にどんな望みがあるのか。一体どんな想いを抱えて、土蔵にやって来たのか。  斎は思い立って、デスクライトの下にある置物に手を伸ばした。茶筒よりもひと回りほど小さく、茶道で使う(なつめ)のような形をしていた。蓋にも表面にも絵柄や装飾は一切ない、白い壺だ。  斎は両手で(すく)い上げるように持ち上げ、自分の傍に引き寄せる。  この中にあるのは、大切な友達の遺骸(いがい)だ。  斎の手が陶器の表面をゆっくりと撫でる。すべすべとした陶器の手触りが肌に心地良い。  一日二回、起床と就寝前の挨拶が、斎の日課だった。  この壺を前に思うことは沢山あるのだが、いつも上手く纏まらない。数珠繋ぎに感情が引っ張り出され、炭酸のように次々と消えていく。言葉にするにしても、言い尽くせないような気がするのだ。  今日も就寝の挨拶を告げると、壺を定位置に戻そうとした。両手で持ち上げようとして、息を呑む。  先刻まで壺を置いていた場所の隣に、あるはずのないものが置いてある。 (何で、ここに……?)  金色の貝だ。煌々(こうこう)と照るデスクライトの下、桃の花が描かれた蛤がぽつりと転がっていた。  動揺した斎だったが、幸か不幸か、今までを振り返るだけの余裕があった。立っていたら、慌て過ぎて壺を落としていたかも知れない。  土蔵で貝桶に最後に納めた時。自室に入った時。コートを脱いで着替えた時。いくら記憶を巻き戻し、再生しても、この貝を持ち込んだ記憶どころか、机の上に置いた覚えもない。  やはり、おかしい。今の今まで、この貝はなかった。  思い返せば返すほど、疑問が確信に変わる。同時に、不安と焦燥がじわじわと胸の内に広がっていった。  恐る恐る手に取ってみれば、貝殻の堅い手触り。それは確かに、土蔵で夜光から常と話を聞き、実際に見て、斎の手で貝桶にしまった貝だ。  突然降って湧いた、とでもいうのだろうか。まさか、そんなはずはない。  氷を押し当てられたように、心臓の裏がひやりとする。  そこで斎の意識は、ぶつりと途切れた。  落雷で停電したように、何の前触れもなかった。  気付くと、斎は白い割烹着(かっぽうぎ)を着て菜箸(さいばし)を握っていた。目の前には、ほうれん草の胡麻和(ごまあ)えが乗った小鉢。今まで盛り付けていたような手付きで、調理台の前に立っている。先刻からジュウジュウと美味しそうな音をさせているのは、網に乗った魚だ。  首を巡らせてみるが、やはり見覚えのない台所だ。まさか、母がいつの間にかリフォームした訳でもないだろう。広さも窓の位置も、自宅のそれとは全く違っている。蛇口はレバーではなく三又(みつまた)のハンドルだ。炊飯器が持ち上げられなそうなくらい大きい。電子レンジはないようだ。斎の自宅より時代が古いような気がした。 (ここは……?)  斎は自室にいて、机の上に貝を見付けたところだったはずだ。突然気を失ったかどうかして、正気付いた時にはここにいた。しかも、見ず知らずのお宅の台所で食事の支度をしている。  何がどうなっているのか、全く分からない。推測も立たない。これは、夢なのだろうか。 「……――さま? どうなさいました、奥様?」 「は、はい!」  咄嗟(とっさ)に斎の口から返事が飛び出した。自分のことだと思ったのではなく、単なる反射だ。  振り返ると、割烹着(かっぽうぎ)姿の女性が心配そうに此方を窺っている。小柄な斎からすれば珍しいことに自分よりずっと小柄で、ふくふくとした頬の女性だった。奥様、と斎を呼んだのは、この女性らしい。 「連絡が入りまして、そろそろ旦那様がお帰りになるそうです。……あの、奥様、大丈夫ですか……?」 「は、はい、大丈夫、ですよ」  全く大丈夫ではない。いつ自分は既婚者になったのか。  斎は現役の高校一年生で未婚だ。伴侶(はんりょ)どころか、恋人だっていない。 (ど、どういうことなの……?)  聞いたところで答えが出るはずもない。混乱極まった斎の思考が、ぐるぐると渦を巻き始める。  その場で動けない自分を、女性が心底案ずるように見詰めている。口振りから察するに、彼女は家政婦さんとかお手伝いさんのようだ。 「奥様、本当に大丈夫ですか? 奥様は働き過ぎなんですよ。旦那様が仰ったからって、何でもかんでも、ご自分一人でしなくたってよろしいんです。あたくし達の仕事がなくなってしまいますよ」  小さく苦笑する女性は労うような優しい声音だ。斎の手から菜箸を抜き取ると、優しく肩を掴んでくるりと方向転換させる。少し強引に背中を押しやった先は、出入口の扉だ。 「あたくしに後は任せて、奥様は旦那様を出迎えて差し上げて下さいな。ね、ほら!」 「え、は、はい! では、お願いします!」  そのままはいけません、との注意に従って、脱いだ割烹着を近くの椅子に適当に掛ける。割烹着の下は上質な白いブラウスと紺色のスカートだ。明らかに斎の持ち物ではない。 (取り敢えず、言う通りにしよう)  彼女に自分は奥様ではないと告げたところで、信じて貰えそうにない。会話が奥様相手のやり取りだった。  何より、この状況を把握したい。  斎が扉から出た先には、床張りの廊下が伸びている。  昔の造りの、しかも知らないお宅の間取りなど分かるはずもない。それなのに、斎の足は躊躇(ためら)う素振りもなく踏み出す。出迎え先を知っているのか、爪先は真っ直ぐ廊下の先を向いていた。 (今、何か……)  廊下を数メートル進んだところで、斎は足を止めた。後ろ歩きで二、三歩引き返す。視界の端で何か動いたような気がしたのだ。  戻った先には、板チョコみたいな木製の分厚い扉。それが細く開いていた。行儀が悪いと思いつつ顔を覗かせる。部屋には明かりが点いていて、大きなテーブルに椅子がいくつか並んでいる。食堂らしい。  その向こうに()め込まれた大きな窓には、夕闇が広がっている。電灯がぼう、と庭木を照らし出し、その間に埋もれるようにこぢんまりとした庭池が見えた。  薄々勘付いていたが、この家は屋敷とか邸宅とか、そう呼べるのだろう。 窓に白いブラウスが映って気が付く。何か見たと思ったのは、暗がりの窓に映った斎自身の影だ。  そそくさと部屋を出ようとした斎だったが、胸にざらりとした違和感が刺さった。再び窓を見て、愕然(がくぜん)とする。  窓に浮かぶのは、白いブラウスと膝下丈の紺のスカート。当然映し出されるのは、斎の姿だ。この場に立っているのは斎だけだ。  それなのに、夕闇に浮かんでいるのは、斎の顔でなかった。  髪を後ろで一つに纏め、見たこともない瓜実顔(うりざねがお)の女性が目を見開いていた。違うのは顔ばかりではない。目の高さが明らかに違う。家政婦らしい女性が小柄だと思ったのは、いつもより十センチ近く身長が高いからだった。 「な、何で……!?」  行動が二分の一倍速と称される斎だが、身長が伸びたと喜ぶほど呑気ではなかった。  窓を見詰めたまま、己の顔を掌で触って確かめ、腕や脚を見下ろしては狼狽(うろた)えた。 (これは、まずい気が……)  自分は奥様と認識されたまま、誰にも宝木(たからぎ)(いつき)と分かってもらえないのではないか。だって、どこをどう見ても全くの別人。斎の痕跡など影も形もない。  そもそも、何故ここにいるのか、ここはどこなのかさえ分かっていないのだ。  心臓がぎゅっと縮み上がる。呼吸が苦しい。耳鳴りがする。胸の中で焦燥や不安が砂嵐のように巻き起こっていた。  不意に廊下の先で賑やかな気配がして、斎は我に返った。低い男性の声が今の状況を思い出させる。この女性の夫が帰宅したのだ。  ()(かく)、今は不審に思われてはいけないと、小走りになって廊下を急ぐ。足に任せて向かった先は玄関ホールだ。 「とうさま、おかえりなさい」 「おかえりなさい!」  ホール内には、幼い子供の無邪気な声が弾けた。  (えり)の付いたワンピースを着たおかっぱ頭の女の子が、帰宅した男性にはにかむ。毬栗(いがぐり)頭の男の子は弟らしい。待ちかねていた様子で男性のコートを掴んでいた。 (こ、子供まで……!)  遅れて到着した斎は衝撃に固まった。  奥様と呼ばれるくらいだ。中身は斎だが、この女性に子供がいても何らおかしくない。窓に映っていた様子だと、女性は本来の斎より多くて五つくらい年上に見えたが、昔なら十代で出産もそう珍しくないだろう。  そう分かってはいるのだが、こんなに小さな子供が二人もいる母親の意識を乗っ取っている――といって良いのか分からないが――ことが子供達から母親を奪っているようで、何となしに罪悪感を抱いてしまうのだ。 「やあ、今帰ったよ」  玄関ホールに立つ男性が屋敷の主人であり、斎の意識を宿したこの女性の夫だ。十くらい上に見えるが、年の差婚というやつだろうか。すらりとした体躯(たいく)で、いかにも上等なスーツが似合っている。腕に掛けたコートも鞄も派手さはないが、その分落ち着いていて品が良い。生真面目そうな眉と、細く通った鼻筋が印象的だ。  家族の出迎えに、男性は安堵したような穏やか笑みを浮かべた。被っていた帽子をはしゃぐ息子の頭に乗せて、そのまま抱え上げる。今日の出来事を絶えず話す娘に相槌(あいづち)を打つのも忘れない。良い父親そのものだ。  彼は妻の姿を認めると、(こと)(さら)嬉しそうに顔を(ほころ)ばせた。  (まぶ)しそうに細めた目の奥が、妻への情を雄弁に語っていた。  その手の話に(うと)い斎でも分かる。  これは、愛しい人だけに向ける笑みだ。  人は本当にこんな表情をするのかと感動すると同時に、申し訳なさで胸が痛む。  この表情を受け取るべき相手は、自分ではない。 「どうかしたのかい? どこか調子が悪いとか?」  顔を上げると、男性が顔を曇らせていた。いつまでも突っ立ったままの妻を心配している。 「いえ、大丈夫です。有り難うございます。それと、お帰りなさい」  斎は何とか笑って、男性から(かばん)とコートを預かる。斎の意志ではなく、体が勝手に動いたのだ。この女性の意志か習慣なのかも知れない。  男性は子供をあやしながら、廊下の奥に消えていく。妻も付いて来ていると思っているのか、休みの計画を立てる一際賑やかな声が聞こえる。  斎はちらりとそれを見送っただけで、その場に立ち尽くした。足の裏を縫い付けられたように微動だにしない。 (どうしよう……)  胸中で戸惑いの台詞を零すのとは裏腹に、斎の冷えた思考はめまぐるしく回り出す。  条件反射も鈍ければ、運動能だって劣る。(ひい)でた能力もない。だからこそ、行動一つにも直感に頼らない。ある程度の計算と度胸が必要だと、斎は思った。  先に思い付いた通り、一番は状況把握だ。本で読んだようなタイムスリップとか憑依状態とかなのかは全く分からないが、判断するにもまず、情報が必要だろう。夜の内はこの屋敷の中を探り、明るくなったら外も探索しようと決める。  泣くのは、全てやり尽くしてからだ。  預かった鞄の持ち手を握り締め、斎は唇を引き結んだ。  その時。  ―――いかなる地獄の責め苦とて、……―――  不意に、背後から声がした。  まるで夜の墓の下で呟く亡霊のように、低く(しわが)れた声だ。しかし、濁った音には凛とした覚悟のような響きがあった。  男性の声だったが、先刻までいた旦那様ではない。彼の姿は子供達と一緒に廊下へと消えている。もっとずっと年嵩(としかさ)の声に思えた。しかも自分の身長よりずっと下、足元の辺りからしたような気がする。  そこで斎は気付いてしまった。 (人の気配なんて、なかった……!)  こんなに(そば)で声が聞こえたら、普通、近付いた時に足音とか空気の動きとか、何かしら勘付くだろう。  ぶわり、と冷や汗が噴き出す。背後の気配に否応なく意識が集中した。  振り返りたくない。振り返りたくないが、振り返らなければいけない。身の安全のためにはこの目で確認しなければいけない。もしも、相手が自分に危害を加えようとしていたらどうする。  一度でも最悪の事態を思い付けば、思考が悪い方に転がり出すのを止められない。  もしも、相手が大きな刃物を持っていたら。もしも、怖気(おぞけ)のするような不気味な人物だったら。もしも、人でさえなかったら。もしも、もしも、もしも。  鼓膜の奥で心臓の音がする。指先が冷え切っていた。  後ろの存在から意識を離さず、斎はまず、首だけをゆっくりと捻った。ついで、(きぬ)()れの音もさせないように、体ごと振り返る。  目の前には男性が一人、ぽつんと座り込んでいた。此方に背を向けていて、顔は見えない。病衣のような白い衣服に身を包み、何も履いていない足をきちんと揃えて正座している。切り揃えられている髪は真っ白だ。薄い服の上に背骨の凹凸(おうとつ)が浮き出ているのが分かる。深く(こうべ)を垂れて丸めた背中は、まるで告解(こっかい)のようだった。 「貴様! 自分の体を放って、こんなところで何をしている!?」  突然、雷のような怒声が斎の鼓膜を打った。  一気に振り返って、唖然とする。預かった鞄とコートが腕から滑り落ちた。(うずくま)る老人のことは既に頭から吹っ飛んでいる。  見慣れているはずの真珠色の長羽織が懐かしい。柳眉を逆立てた夜光が腕を組み、真っ直ぐに立っていた。 「此処で何をしているのかと聞いている。どうやって入り込んだ。おい、聞いているか、斎」 「……夜光、ですよね……? わたしが、分かるんですか……?」  まるで狐に()ままれた気分だ。呆けたまま尋ねれば、彼は苦虫を一束(ひとたば)くらい噛み潰したように顔を歪めた。 「お前が胎内にいる頃からの付き合いだぞ、当たり前だろうが。……どうした? 何があった?」  様子がおかしいと思ったのか、夜光は声音をいくらか(やわ)らげた。顔色を確かめながら近付いて来る。 「気付いたら、知らない場所で……わたしは、わたしではなくて……えっと……」  斎は説明を試みようと、懸命に言葉を探した。  ただでさえ混乱していた上、神経が張り詰めていたところに思わぬ人物の登場で、頭が上手く回っていない。どこかぼんやりした思考回路が、美人は怒っていても美人だ、とどうでも良いことに感心している。  同時に、言いようのない安堵(あんど)が胸に広がるのも分かった。その場に座り込みそうになるのを、両足に力を込めて必死に耐える。涙腺から(にじ)み出す水分は(まばた)きを繰り返して誤魔化した。湿った吐息が漏れるのは仕方ない。  夜光が一目で、自分だと見抜いてくれたことが、ただただ嬉しかった。 「(おおよ)その見当は付いた。説明は後だ。此処から出るぞ」  しどろもどろの斎を見て取って、夜光が簡潔に告げた。顔を覗き込んで来る闇色の瞳と視線がぶつかる。 「良いか、お前はお前を思い出せ」 「え、は、はい……?」  ここがどこかも分からないのに、何を言うのか。  戸惑う斎の後ろに、夜光の手が伸びた。頭の皮膚が引っ張られる心地がなくなり、頬に髪が掛かる。斎の髪を解いたのだ。 「お前がそんなふうに髪を結ったことがあったか。普段は味も素っ気もないお下げだろうが。こんなに手入れの行き届いた髪でもあるまい」 「いきなり侮辱ですか!? 夜光はデリカシーって言葉を思い出して下さいよ!」  突然の悪口とは何事か。引っ込んだ涙の代わりに、斎の口から苦情が飛び出した。  俺のことは置いておけ、と夜光はしれっとしている。 「それからその服、いつ買ったんだ。そも、お前の体格には合っていまい。顔もこんなのじゃない。お前は全体的にもっとちんちくりんだ」 「訂正を! せめて別の言い方を要求します! 先刻(さっき)から喧嘩を売っているんですか!? 良いですよ、買ってやりますよ! お釣りはいりません!」 「やめておけ。お前の手持ちでは足りないぞ」  (まく)し立てる斎を、夜光が鼻で笑い飛ばした。涼しい顔を愉しそうに歪ませた様は悪役そのものだ。  良く見るその表情が先刻より少し遠くなっていることに、斎は気付く。視界がいつもの馴染んだ高さだ。血圧が上ったことで頭に血が巡ったのか、今までのことや自分のこと、それに(まつ)わる諸々(もろもろ)をじわじわと思い出していた。  斎の了得(りょうとく)を察して、夜光が口の端を上げる。 「此処は居心地が悪かろう。さっさと自分の体に帰れ、斎」  パチリ、と音がしそうな勢いで斎は目を開けた。思い出したように息を深く吸う。綿(わた)でも詰まったようだった耳から圧が抜ける。  (ほの)かに明るい視界には、見慣れた木目。自室の天井だ。壁の時計はそろそろ三時を指そうとしている。部屋の様子からすると、昼間ではない。背中の感触はいつも使っている自分の布団だ。 (……戻った……)  目が覚めた、というより、そう表した方がしっくり来る。 「気付いたか」  耳に馴染んだバリトンだった。  斎が視線を横に滑らせると、白磁の顔が此方を見下ろしていた。勉強机の明かりよりも、真珠色の長羽織が(まぶ)しい。ベッドの脇へと勉強机の椅子を引き寄せ、座った夜光が長い足を組んでいた。  勝手に話すぞ、と彼はひっそりと穏やかな声で切り出す。 「お前が倒れているところを(ときわ)が見付けた。名を呼んでも叩いても反応がない。救急車を呼ぼうとしたが、どうも様子が妙だと、常が蔵に飛び込んで来て大騒ぎだ。烈は冷静だったが、蝶子が気を動転させてしまってな。落ち着かせて、今は休ませたところだ。大事ないから安心しろ」  蝶子は斎と常の母のことだ。斎達の父は今、海外にいる。そのことで心細い思いをしているだろうに、自分について心労を掛けたと思うと申し訳なかった。 「(ときわ)に礼を言っておけよ。俺を呼んだ判断は正解だった。言い方は悪いが、お前は蔵で見た貝桶か貝に目を付けられたな。俺が見付けた時、お前の魂は半分、貝の見せる幻に取り込まれていた」 「……ま、ぼ……?」  どういうことだろう。  尋ねたかったが、今の斎は呼吸をするのも億劫(おっくう)だった。頭が溶けた鉄を詰め込まれたように重い。それでもせめて、助けてくれた夜光に礼を、と口を開くが、出るのは熱い吐息ばかり。どうも熱があるらしい。火照った体が水を吸ったスポンジのようにふやけている。 「斎、念のために一つ聞く」  声の調子はそのままに、夜光が考える風情で尋ねる。 「机の上に貝桶の貝があったが、お前が持ち出したのか?」  桃の花が描かれた貝のことだ。  斎は小さく首を横に振る。土蔵の物を勝手に持ち出すことは、幼い頃から祖父にきつく禁じられている。  夜光もそれを知っていて、そうだろうな、と低く呟いたきり。それ以上の追及も説明もなかった。代わりに着ていた長羽織を脱ぐと、そっと掛け布団の上に広げる。ふわり、と焚き()めた(こう)が、あやすように優しく鼻先を(くすぐ)る。 「(もの)()に当てられたな。魔払いの代わりだ。被っていろ」  斎はその香りを肺の奥まで満たそうと、深呼吸を繰り返した。経験上、こうすると気分が楽になることを知っていた。期待を裏切らず、腐った泥のような体からは倦怠感が嘘のように抜けていく。  幼い頃、出先で体調を崩すと夜光の背中に負ぶわれたことが頭をよぎった。 「も、の……? わるぃ、ぉの、だった、です、か……?」  何とか絞り出した斎の声は、干からびたの蛙の鳴き声のようだ。  突然見ず知らずの人物に成り代わっていたことや、突然現れた老人の存在は恐ろしかった。こうして寝込むことは良くないが、仲の良い家族の平和な日常自体はそんなに悪いものではなかった気がする。  酷い声で聞き取れないだろうと思ったが、夜光には造作もなかったらしい。そうではない、と答えてくれた。 「良し悪しではなく、相性の問題だ。お前にとっては良くないものだった。それだけだ。後の話はお前が床払いしてからだな。今は眠れ」  眠るまで傍にいてやる、と夜光の大きな(てのひら)(まぶた)をそっと覆う。ひんやりと冷たい手が熱い肌には心地良い。  夜光、と呼びかければ、何だ、と低い声が返る。  (こう)のお陰か、(かぐわ)しい眠りの波はすぐそこだ。揺蕩(たゆた)う意識が引き込まれる寸前、斎はほう、と安堵の息を吐く。 「……ありが、とぅ……」  瞼の向こうで空気が揺れる。夜光が小さく笑ったのが分かった。     
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

24人が本棚に入れています
本棚に追加