参《さん》ノ幕

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参《さん》ノ幕

 祖父の(れつ)から、貝桶の持ち主が見付かったと聞いたのは、貝桶が持ち込まれた日の翌日の夕方、斎が学校から帰宅した時だ。しかも、その日の午前中には電話連絡済みだというのだから、その手腕には恐れ入る。  祖父が普段、何をしているのかは分からないが、貝桶との初対面から一日と経たずに持ち主を探し出してしまうとは、一体どんな人脈を持っているのか、(はなは)だ謎だ。  意匠(いしょう)といい、由来といい、あれだけ立派な貝桶だ。先方もすぐに取り戻したいだろうと斎は思ったのだが、祖父の連絡が来るまで貝桶がないことに気付いていなかったそうだ。しかし、すぐには引き取りに行けないのだという。対応した祖父曰く、どうやら別件で取り込んでいるようだ、とのこと。余計なお世話を承知ながら警察へ窃盗の届け出を進めてみたが、先方は大事にはしたくないらしい。此方が届け出ていないことも、(むし)ろ感謝されたくらいだ。  勘が働いたのだろう。ならば、と祖父は此方が出向くことを申し出た。電話の向こうは当然、これ以上のご迷惑をお掛けする訳にはいかない、とひたすら断っていたが、そこは祖父の手腕によるところ。最後は祖父の提案を受け入れた。感謝しつつも、足労を掛けることを恐縮しきりだったそうだ。  貝桶が何故、祖父を頼ったのかは分からない。しかし、持ち主の元に無事返ることが出来るなら、それに越したことはないだろう。案外夜光の言っていた通り、泥棒の手元から逃げて、持ち主に連絡を付けて欲しかったのかも知れない。 「こんにちはー。夜光、いますか?」  かちこちに冷え固まった冬の空気を、淡い陽が弱々しく緩める午後。  貝桶の持ち主を訪ねる当日、しっかりと着込んだ斎は格子戸を引くと土蔵を(のぞ)いた。  斎の部屋から回収された貝は無事、貝桶に納められ、土蔵にご宿泊と相成ったのだった。 「貝桶を預かりに来ました」 「斎か。烈はどうした?」  薄暗い奥から低い声が聞こえたかと思えば、夜光が目の前に立っていた。貝桶を包んだ風呂敷を片手に、相変わらず黒一式の服に真珠色の長羽織姿。(いぶか)しそうに柳眉(りゅうび)(しか)め、上がり(かまち)から見下ろしている。 「烈と行くのか? よもや、一人ではあるまいな?」 「わたし一人で届けに行きます。おじいちゃんは何かやることがあるとか」  一昨日の夜の体験――夜光曰く貝の見せた幻――から、斎の興味の先は専ら貝桶とその中の貝だ。貝桶の持ち主にも会ってみたかった。そこで自ら祖父に同行を申し出たところ、何も話してはいないのに何事か察したらしい。祖父は斎一人にお遣いを任せてくれたのだ。  説明を聞いた夜光が眉間を引き(しぼ)って、ますます顔を(ゆが)ませた。 「烈は何を考えている。俺も付き合おう」  言うや否や、貝桶の入った風呂敷包みを斎に押し付けた。土間に降りた夜光の足にはいつの間にか、高級そうな黒光りする靴が履かれている。左胸辺りの内側に手を突っ込むと、しゅるり、と大きな黒いマフラーを引き抜いた。  四次元ポケットでも縫い付けてあるのか。長羽織の裏にそんなゆとりはなく、表から見てもマフラーが収まっていたような膨らみはなかったはずだ。  夜光は慣れた様子でマフラーを首に巻き付けると、今度は指揮者が音を摘まみ取るように、空中でひらり、と手首を返した。大きな手には鍔広の黒い中折れ帽子。帽子を持ったその手も、すっかり黒い絹の手袋に包まれている。  毎度のことながら、斎は声もなく感心した。相変わらず、手品のような神様パワーだ。  幼い頃、常と二人、長羽織を借りて良く真似したものだが、帽子どころか靴下片方だって出せた試しはない。  (ちな)みに斎は知っている、今でも常がこっそり練習しては首を(かし)げていることを。  先方が手配したタクシーに夜光と乗り込めば、行き先を告げることもなく滑り出した。車の多い国道を走って県を(また)ぎ、大きな市の中心街を抜ける。古い戸建てばかりが立ち並ぶ中、黒塀に囲まれた一際立派な屋敷が現れた。まるでドラマの舞台のようだ、と斎が窓越しに唖然としていると、タクシーがその屋敷の門の前に横付けされた。瓦屋根を被った大きな門扉である。  貝桶を所有しているくらいだ。立派なお宅だろうとは思っていたが、まさかこのお屋敷なのか。  タクシーを降りた斎は、今更ながら肩が強張る気がした。何だか()(おく)れしてしまう。  一方の夜光は、(つゆ)ほどもそんな素振りはない。どこからか取り出した帽子やマフラーをまたどこかへと消すと、ずかずかと敷石(しきいし)を踏んで行った。    門に掛けられた表札は『花總(はなふさ)』。この花總家というのは、所謂(いわゆる)、地元の名士らしい。今でも県内外に多数の土地と不動産を所有し、昔からそれを元手に色々と手を広げて来たのだそうだ。だからとて私利私欲ばかりなのではなく奉仕の心も厚い。小学校の建設費用や県道の修繕費などの寄付も積極的だ。最近では大型ショッピングモールの誘致にも協力したとか。祖父からちらりと聞かされていたが、成程、説得力がある。  愛想の良い家政婦の後に続き、斎と夜光は応接間に向かう。途中、右に障子続きの部屋、左には広い庭を臨める廊下を歩いていた時のこと。  斎は廊下の窓越しに何となく庭を眺めていたが、不意に、あ、と間抜けな声を漏らしてしまった。 「どうした? 斎」  足を止めた斎を、先に行った夜光が振り返った。見れば、家政婦も不思議そうな顔をしている。 「な、何でもないです! 広くて立派なお庭で、吃驚(びっくり)しちゃいまして!」  斎は愛想笑いで誤魔化し、慌てて夜光に追い付いた。  嘘ではない。驚いたのは本当だ。  廊下の窓の外に広がる和風庭園。その中央に陣取っているのは、庭の三分の二近くを占めていそうな大きな池だ。色鮮やかな錦鯉が悠々と泳いでいるのが似合いそうだが、今はその影もない。池の水位が半分もなく、濁って底も見えない。鹿威(ししおど)しも暇そうだ。業者に修繕を頼んでいるのか、池の側面ではコンクリートに(ひび)が走り、場所によっては崩れているのが見えた。  すっかり寂しくなってしまった庭だが、端に聳え立つ松や、ぽつぽつと燃え立つ赤い寒椿がひっそりと慰めている。  大きな池が自慢なのだろう。しかし、斎にはうっすらとした違和感があった。一回り大きな服を着せられているようにしっくりこない。アンバランスな庭に感じるのだ。 (もっと、こう……)  池は小さい方が良かった。  違和感の正体の尾を掴んだ瞬間、斎の口から母音がぽろっと出てしまったのだ。 「大きさは違いますが、庭の池はわたしが貝の幻の中で見たものではないでしょうか。つまり、幻の中の様子は見る影もありませんが、このお宅はあのお屋敷だと思うんです」  和室の応接間で待たされている間、ひと通り話した斎は、小さく深呼吸した。あの夜に見たものが夢でも空想でもなく、現実と地続きであることを感じ取って、つい気が高ぶってしまった。  一昨日の斎が見たものは、部屋にあった貝が見せた幻だ。  そうタクシーの中で改めて告げたのは夜光だった。  (いわ)く、昔の家庭の日常のような舞台は貝か、あるいはその持ち主の記憶なのだとか。その中へあの小さな貝が斎の魂の半分を引っ張り込んだというのだから、目を丸くするしかない。  そんなことがあり得るのか、と斎は唖然としたが、目の前の神様が(おお)せられるのだから真実なのだろう。物に関わって妙なことに巻き込まれるのは、今に始まったことではない。それに、不可思議なことについての許容範囲は宇宙同様、広がる一方だ。伊達に祖父の孫をやっていないし、この神様や自宅の土蔵とも付き合っていない。  夜光の推測によると、未婚の女性であるがゆえに、貝は斎に目を付けたらしい。貝と意思疎通を図れるわけではないが、当たらずとも遠からずのような気がした。貝桶は嫁入り道具だというのは、十二分に解説されたばかりである。  斎の脳裏に浮かぶのは、夕闇に浮かぶ女性の瓜実(うりざね)顔。幻の中で成り代わった、うら若い奥様だ。  幻の中で、その姿の斎と対面している夜光も、同じことを考えていたらしい。あの女性が持ち主の可能性が高い、と難しい顔で言い添えた。 「丁度暇だ。話の相手になってやろう」  夜光の低い声が尊大に言い放つ。座布団の上に胡坐(あぐら)を掻き、その上に頬杖を突いて、いかにも退屈そうだ。 「かなり様変わりしているとは言え、お前の勘を元に、昔の写真や資料から確かめられる可能性もある。貝桶が本当に同じ家に代々引き継がれていて、持ち主がこの邸宅の人間なら、幻の中の屋敷が以前、この場所に在ったとしても何ら不思議はない。だが、それが何だ。確かめたら終わるだけの事実だろう」 「分かっていますよ。そんなド正論をぶつけて来なくたって良いじゃないですか」  待たされている間くらい、思い付きに付き合ってくれても良いだろうに。手持ち無沙汰(ぶさた)なのだ。  口を尖らせた斎は白磁(はくじ)の顔を横目で見た。隣からは髪に隠れて碌に見えないが、小馬鹿にした雰囲気は伝わって来る。悪役(ヴィラン)のようなせせら笑った表情が浮かんだ。 「それに、貝が見せたという幻が、何だか引っ掛かるんです」  よくある夕方の風景もさることながら、その中に入り込んだあの亡霊のような老人の存在。それが、斎の胸に暗澹(あんたん)たる影を落としていた。  顔が見えなかったのは幸か不幸か。あの亡者のような潰れた声は、今思い出してもぞっとする。地獄の責め苦、と口にしていた単語だって恐ろしい。  しかし、静かに腹を(くく)ったような声音でもあったような気がするのだ。老人は何かしくじりでもしたのだろうか。まるでその罪を告白し、断罪を待っているようだった。平和な家庭の一幕ではなく、教会の方が余程相応(ふさわ)しそうだ。  幻に筋も道理もない、と割り切ればそれまでだが、降って湧いた白い寝間着の老人は、まるで異質だ。 「持ち主の所へ戻るために、何故あんな幻を見せる必要があるんでしょうか。何か意図でもあるような気がして……」 「無意味無価値から意味を見出そうとするのは、いかにも人間らしいことだな」  神様は人間臭く肩を(すく)めると、座卓の上の茶碗に手を伸ばした。今度は顔ごと夜光に向けて、斎は疑問を投げる。 「夜光は何か気付いているんじゃないですか? 同じく幻の中にいたんですし、何か分かっているのでは?」 「俺はお前を見付けて、さっさと連れ戻しただけだ。盗人の下調べでもあるまいし、他人の家を見て回るほど暇ではなかった」 「わたしが泥棒で暇人みたいな言い方をしないで下さい」  斎がじっとりとした目で夜光を見やった時、失礼します、と障子の外から若い男性の声がした。  障子を滑らせて現れたのは、大学生くらいの青年だった。切り揃えた髪に派手な染色はなく、清潔感のある服装。しゃんと伸びた背筋やゆったりとした所作から、育ちの良さが伺えた。  彼の顔を視界に捉えた時、斎はひっそりと息を呑んだ。  先刻まで夜光と話していたせいだろう。生真面目そうな眉と通った鼻筋が、貝の幻に出て来た旦那様を思い起こさせる。  青年は座卓を挟んだ座布団に腰を下ろすと、背筋を正して頭を下げた。 「現在の当主の息子、花總(はなふさ)(なお)(ちか)と申します。この度はご足労頂きまして、本当に有り難うございました。父に代わって、お礼を申し上げます」 「そう(かしこ)まるな。子供にしおらしくされては、此方(こちら)としても居心地が悪い」 「夜光!」  尊大な神様の態度に、斎は横から小声で咎めた。顔を上げた直親は気分を害した様子もなく、それもそうですね、とあっけらかんとしている。  意外と親しみやすい人物なのかも知れない。だからといって、偉そうにして良い訳もない。夜光に大人の対応は期待しない方が良いだろう。  斎は慌てて、直親に(なら)って一礼した。 「宝木斎です。ご連絡差し上げた祖父に代わって、此方の所有している品だと思われる貝桶をお持ちしました。押し掛けるような訪問、申し訳ありません。大切な品のようですから、なるべく早くお渡しした方が良いのでは、と思った次第です」  此方が貝桶です、と座卓に乗せた風呂敷を差し出す。 「お心遣い、感謝します。確かめさせて頂きますね」  受け取った直親は風呂敷の結び目を解き、組紐を外すと、両手で蓋を持ち上げた。斎の位置からでも、金箔や桃色、紅色の(きら)びやかさが目に届く。直親が中を覗くと、確かに、と満足そうに頷いた。 「間違いなく、祖父の持ち物です」 「おじい様の、ですか?」  祖母ではなく、と斎は首を傾げる。  貝桶は嫁入り道具のはずだ。入り婿にも持たせたりするのだろうか。 「僕も良くは分からないのです」  直親は貝桶にふっと笑いかける。緩んだ目元が、ますます幻の中の旦那様に似ていた。 「ただ、数ある骨董品の中でも、特にとても大切にしていました」 「今日そのじいさんはどうした? 既に泉下(せんか)の客か?」 「夜光、失礼でしょう! ご免なさい、花總さん!」  斎が(たしな)めるも、夜光は涼しい顔。困ったような顔をしたのは直親の方だった。口籠っている気配を察して、斎が更に謝罪をしようと、口を開いた時だ。 「今日会ったばかりの方に、こんな話をするのも心苦しいんですが……」  直親は哀切(あいせつ)(にじ)んだ面持ちで切り出した。 「最近は年齢のせいか、めっきり弱ってしまって、一昨日、とうとう自宅で倒れてしまったのです。昨晩、意識もはっきりして、自宅に戻りたいと言っていますが、まだ病院に。今日この場で父がお相手できないのも、それが理由なんです。祖父が花總の当主だった頃は、開発工事の現地に自ら足を運んだり、周りの住人から直接話を聞きに行ったりと、精力的な人だったんです。父が後を継いだ頃も(しばら)くはあちこちに旅行したりして元気だったんですが……」 「それは、お辛いでしょう……」  斎は言葉が見付からず、無難なことしか言えなかった。  もし自分の祖父がそんなことになったら、と想像しようとして、やめた。考えたくもない。  そして、同時に(ひらめ)く。  貝桶が土蔵に行き着いたのは、直親の祖父と何か関係があるのではないか。泥棒の元にありながらも持ち主の危機を察知したとか、それで誰かに知らせようとしたとか、なかなか有り得そうな話ではないだろうか。 内心気持ちを高ぶらせる斎だったが、先刻の夜光の台詞が(たちま)ち我に返らせた。きゅっと口を堅く結ぶ。この思い付きは口にするまい。 「一昨日なら、うちに貝桶が持ち込まれた日だ」  沈痛な空気の中、ふん、と夜光が低い声で笑う。唇の端を皮肉そうに吊り上げていた。 「つまり、じいさんが倒れたそのどさくさに紛れて、この屋敷に盗人が入り、貝桶を持ち去った、ということか。しかも盗人は身内の可能性がある、とお前はそう考えている訳だな」  驚いた斎だが、同時に納得もした。  これだけの家だ。世間の目は厳しい上、図らずも世間体に気を遣う。血縁内で自治が働くのも当然だ。身内の恥なら身内で処理してしまいたい。だから、警察に届けていないことを感謝していたのだ。 「安心しろ。俺達が口外することは決してない。此処の事情に興味もなければ、知って得することもない」 「いやあ、話が早くて助かります。謝礼でも弾まないといけないかな、って思っていたので」  直親が冗談めいた口調で頭の後ろを掻いた。いや、冗談ではないのかも知れない。 「(ちな)みにお尋ねしますが、そちらを訪れたのはどんな人物だったんですか?」 「若い男性でしたよ。髪を派手に染めていて、スーツ姿でした。何だか、ねずみ男を思い起こさせるような……」  斎が一昨日のことを思い出していると、やにわに廊下が騒がしくなった。ドカドカと荒い足音が近づいて来る。そうかと思えば、断りもなしにスパン、と障子が勢い良く開いた。 「何だよ、直親ぁ! 可愛い女の子が来ているって家政婦さんから聞いたぞ! オレにも紹介しろって!」 「客人の前です、(たか)(まさ)従兄(にい)さん!」  焦った直親が膝立ちで障子を抑え、必死に押し返そうとした。飛び込んで来た男の顔を見るや、斎はぽかり、と口を開ける。呆気に取られる、とはまさにこのことだ。  ぼさぼさの脱色した髪に、不健康そうな顔色。今はジーンズ姿だが、着ているダウンジャケットは見覚えがありすぎる。貝桶を持ち込んだ人物が着ていたものだ。 「丁度こんな感じの方でした」  思い出した通りの人物の登場に、斎は目を丸くした。 「あなた、うちの蔵に、来ました、よね?」  恐る恐る、でも確信を持って尋ねれば、隆雅従兄さん、と呼ばれた男が、え、と声を漏らす。虚を突かれた顔はみるみる驚愕と恐怖に染まっていく。 「あ、あぁあ、あの蔵の! 店主までいるし!」 「俺の顔を見て騒ぐとは、つくづく無礼な奴だな」  不愉快そうに鼻を鳴らす夜光も、隆雅には恐怖の化身にしか見えないらしい。声にならない声で叫ぶや否や、隆雅は(きびす)を返して後ろの硝子戸に両手を引っ掛けた。鍵が掛かっているのに気付いて慌てて外すと、靴下のまま開け放った硝子戸から庭に飛び降おりる。  人間、追い詰められると予想だにしない行動を取るというが、まさか外へ逃走を図るとは。しかも一昨日と似た構図からして、人間の進歩の難しさが(うかが)える。  あまりのことで斎は硬直し、直親も畳に尻をぺたりと付けたまま目が点だ。  そこに突然、斎の横を疾風(しっぷう)が吹き抜けた。  空気を切り裂くような鋭い音で何かが飛んで行く。黒くて平べったい物体のようだった。それが一直線に障子の間、硝子戸の間と突き抜け、見事に隆雅の後ろ頭にぶち当たる。  スコーン! と小気味良い音と共に、隆雅がいてぇ! と絶叫した。勢い余って倒れた先は、少ないながらも水を張った池だ。今度は冷てぇ! と悲鳴を上げる彼は、一昨日から踏んだり蹴ったりである。 「今のは、茶托(ちゃたく)……?」  呆気(あっけ)に取られた直親が、明後日の方向へ飛んで行った物体を見送った。  確かに、あの形は茶托だ。茶碗の下に敷かれていた木製の皿である。  振り返った斎が見たのは、茶托のなくなった夜光の分の茶碗と、立ち膝のまま右腕を振り抜いた格好の夜光だった。  茶托を(たま)代わりに、逃げる人間の後頭部に向かって投げ付けたのである。  夜光は何事もなかったように座布団に座り直し、悪役のようなえげつない笑みを浮かべた。 「俺から(のが)れられる訳があるまい」 「よ、よっ、よ! よ!?」  合いの手を入れたいのではない。斎は夜光の名前を叫ぼうとして、台詞が続かなかったのだ。  貝桶を届けるだけのお遣いが、何故こんなことになったのか。怒りを通り越して、もはや悟りが拓けそうだ。この場に適したお詫びと謝罪の言葉が、斎には思い付かなかった。 「貝桶を盗んだのは、隆雅従兄さんだったんですね」  一早く冷静さを取り戻した直親が、やっぱり、と呟く。唖然とした表情を引き摺っているのは、泥棒が隆雅だったことではなく、夜光の所業に驚いているからだろう。 「あれがうちに来た時の無礼と狼藉(ろうぜき)は、これでチャラにしてやる」  夜光は、おい、と直親に呼びかける。  チャラも何も、あの時小鬼達がやり返してくれたが、と斎は思ったが黙っていた。呆れ果てるあまり、何を言う気力もない。 「謝礼も口止め料も不要だ。この家の不祥事は関知せず、盗人の顔も見なかったことにしてやる。その代わり、貝桶以外の骨董品を拝見させてもらおうか」    不敵に笑う夜光が斎に同行した理由はこれだ。  古く美妙(びみょう)な貝桶を所有しているのは、これまた長く続いている旧家。他にも年代物の品を所有している可能性がある。夜光はその品の中に、自分の探している物の可能性を考えたのだ。 「そう言われては、仕方ありませんね」  短い溜息を吐いた後、直親は(ほが)らかに笑った。  池に落ちた、正確には茶托によって池に落とされた宗像(むなかた)(たか)(まさ)は、直親の父の実姉の息子にあたるそうだ。この従兄(いとこ)、何かとお騒がせの人物で、犯罪すれすれの放蕩(ほうとう)三昧(ざんまい)は日常茶飯事。女遊びが激しいのは当たり前、友人知人に金を借りるのもしょっちゅうだった。実家に金をせびるどころか、祖父の住まいでもある花總邸からも金目のものを持ち出し、売り払ったことは数知れず。三年浪人して有名大学に入学したのは良いが、散々遊び回っている現在、四回目の留年が決定したところだとか。  夜光の読み通り、貝桶に見込まれるだけの御仁のようだ。  重ね重ね申し訳ありません、と頭を下げる直親に、少しでも隆雅と同じ血が流れていると思うと不思議だ。 「ああ、隆雅従兄さん。こんなに派手に壊しちゃって……」  二階の最奥にある部屋に到着すると、扉を見た直親が頭を抱えた。普段は施錠されている部屋だそうだが、今目の前にある扉に鍵は用をなしていなかった。ノブが申し訳程度にぶら下がっているのが、何とももの哀しい。  この短時間で知れた隆雅の性格からすれば、こっそり鍵を持ち出したりピッキングをやってのけたりするよりは、非常に彼らしいといえる力技だった。  夜光と斎が案内された部屋は、正面に大きな窓を据えて白壁に囲まれていた。窓には日除けの厚いカーテンがされていて、昼間だというのに暗幕を被ったように暗い。  直親が扉近くの壁に手を伸ばして、電気を点けた。 「ここからは持ち出せませんが、どうぞ見て下さい。気になるものがあれば、お出ししますよ。(もろ)くなっているものもありますから、気を付けて下さいね」  優しい注意に、斎はすぐさま握った手を後ろにやる。  そう言われて、はい、そうですか、と素手で撫で回せるほど自分の心臓に毛は生えていない。土蔵の物達とは違うのだ。不用意には絶対に触らない。  部屋の中、どうしたって目を引くのは左手奥に据えられた、黒塗りの(よろい)(かぶと)だ。戦国武将よろしく床机(しょうぎ)椅子(いす)に座り、今にも動き出しそうな迫力が凄まじい。その隣の刀掛けには四口の日本刀が並ぶ。金工(かなだぐみ)の性質ゆえか、夜光は関心があるらしい。刀の前で足を止めて、じっと見入っていた。  左右の壁と正面には、斎の肩の高さまである硝子棚が寄せられている。埃一つ、硝子に手垢もないくらいに掃除が行き届き、かなり広いはずのこの部屋が妙に息苦しく感じるのは、これが幅を利かせているせいだ。  宝木家の土蔵と違うのは、硝子棚の中の全てが共箱に整然と納められていることだ。しかも、墨で書き付けられた立派な箱書ばかり。中身が見えないのは残念だが、貝桶があるくらいだ。家に(まつ)わる重要な品だったり祝い事の時にしか使わない品だったりするのだろう。  土蔵に比べたら圧倒的に物が少ない分、こざっぱりとしていた。 「あ、これは貝桶の共箱では?」  硝子棚を覗き込んでいた斎は、硝子越しに指を指した。そこには丁度貝桶が収まりそうな木の箱。蓋が僅かにずれて、隙間が空いている。露見までの時間を稼ぐためか、隆雅は中身の貝桶だけを抜き去ったようだ。貝桶は二つで一組という夜光の説明通り、空箱の隣には全く同じ形の箱が並んでいた。  直親が貝桶を丁寧に木箱に納めるのを見ていた斎は、ふと夜光が静かであることに気付いた。鎧兜の方を振り返って、ぎょっと目を剥く。  目元の涼しい麗人の左手には、一口の刀があった。  斎が制止の声を掛ける間もなかった。  夜光は親指で(つば)を押し上げ、一息に刀を引き抜く。  空気を切り裂く音を聞いた気がした。斎はひっそりと息を呑む。首の後ろが総毛立つのが分かった。  ()()(たま)の瞳には愉しむような光が差している。その先にあるのは、恐ろしくも美しく輝く白刃だ。  慣れた手付きで刀を納めた夜光が、ふむ、と納得したような、感心したような声を漏らした。くくっと咽喉の奥で小刻みに笑う様は、毒々しいほどあくどい。 「思った通り、なかなか良い刀だな」 「刃物片手にはっちゃけないで下さい」  斎は脱力しながら盛大な溜息を吐き出すのがやっとだった。  これっぽっちもそうは見えないが、この神様、内心小躍りするほどウッハウハ、この上なくご機嫌なのだ。    夜光の正体である天目(あまのま)一箇(ひとつの)(かみ)は、『古語(こご)拾遺(しゅうい)』という書物の中で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の岩戸隠れの際、(とう)()鉄鐸(てつたく)を造ったとされている。  自分の十八番(おはこ)を目の前にしてはしゃぎたくなるのは分かるが、ひと様のお宅でひと様所有の刀を振り回すのは頂けない。  お上手ですね、と感心している直親で良かった、と斎は内心で胸を撫で下ろす。仮に夜光の探し物だったとしても、今の所有は花總家。下手したら、叱られるだけで済まない。  結果を言えば、この刀は夜光のものではなかった。単に興味を引かれただけだと、素知らぬ顔の彼だが、内心、夏休み前日の子供のように大はしゃぎだったことはお見通しだ。人騒がせにも程がある。 「あの刀」  部屋を出た時、夜光は意味深長な視線を斎に投げると、薄い唇の端を吊り上げた。 「人を斬り殺しているぞ」  一瞬言葉を失くした斎だったが、すぐ呆れたように嘆息した。 「……それ、どのくらい前の話ですか」  だって、刀だ。現代では美術品として飾られていたり神社に奉納されたりしてはいるが、本来は刃物であり凶器、また武器でもある。当然、人くらい斬っていたって何も不思議はない。  帰り際に、せめてこれだけでも、と菓子折りを押し付けられ、直親に見送られて、斎は夜光と花總邸を後にした。  直親の祖父は入院中だが意識はあるし、直接ではないにしろ、貝桶は元の所有者に戻った。これで万事解決だ。  貝に幻を見せられ、別人に成り代わるなんて驚いたが、もう二度とそんな体験はしないだろう。  斎はそう思っていた。正確には、思い込もうとしていた。  タクシーで土蔵前に帰り着くと、常と小鬼達が出迎えてくれた。特に常は、時折格子戸の外に顔を出して、今か今かと待っていたらしい。文字通り飛び出して来た。お土産でも期待していたのかと、斎は微笑ましい。  しかし、それも(つか)の間。いつもはピカピカの快晴の常の表情が、(しゃ)で覆ったように(くも)っている。生命力の塊のような体には似合わない、戸惑うような雰囲気まで漂わせていた。  普段にはない常の様子に、斎は不思議に思うのを通り過ぎて、心配になってくる。 「姉ちゃん、夜光くん、これ……」  挨拶もなしに、神妙な顔の常が綺麗に畳んだハンカチを差し出した。 「天ちゃんと龍ちゃんが、長火鉢の近くに落ちているのを見付けたんだ」  青い布の間が僅かに膨らんでいるのに気付いて、斎は首の後ろが(あぶ)られるような焦りを感じた。  常から預かった夜光がハンカチを(めく)った途端、今にも舌打ちしそうに顔を顰める。同じく覗き込んでいた斎は、背中に氷柱(つらら)を差し込まれたように体が凍り付くのが分かった。  さも当然のようにハンカチの上にあったのは、金箔の中に桃の花の描かれた貝だ。  深夜に斎の部屋にあった、あの貝に違いなかった。  あの後、夜光が回収してきちんと貝桶に納めたと、夜光自身が言っていた。どこか警戒しているような彼がそんな不手際をしたとは考えづらかった。途中、誰かが、あるいは何かが貝桶から取り出したとも思えない。貝桶には組紐がしっかりと巻かれていたのを、斎も届け先の花總邸で目の当たりにしている。その上直親が確認していた時も、貝桶の中にこの貝が入っていたのを、ちらりとだが、斎は確かに見たのだ。今も当然、花總邸の硝子棚に仕舞われた貝桶の中にあるはずだ。  この場にこの貝があるのは、どう考えてもおかしい。  それに、貝桶は持ち主の元に戻りたかったのではないのか。 「どうして……?」    何故、この貝だけがここにあるのか。  斎が疑問の声を絞り出したが、この場に答えられる者はいなかった。     
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