老犬と中年ニート

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 十月の木曜日、布団の中。寝飽きた脳に、いつものように正午のサイレンが響き渡る。  立ち眩みを耐えながら、いつものようにカーテンの隙間から外を覗いた。昼時の静かな県道と、秋晴れの青空が見えた。歩道では老婆がゆっくりと自転車のペダルを漕いでいた。このカーテンを最後に開いたのは何日前だったろうか。手帳も持たない暗闇の住人が、いつのまにか意識するようになった恐怖心が胸に込み上げた。閉め切っていた扉を開け、部屋から出る。一階へと通じる階段を降り、テレビのある居間へ向かう。一連の動きにはまるで、自分はいないようであった。居間のテーブルには、白米とみそ汁、何個かの漬物が乗った小皿が置いてあった。何時間も放置されていたようで、熱と水分は大分失われていた。しかし、それがいつも取っているその日の最初の食事である。何の躊躇いもなく食道へと流し込んだ。  食事が済むと、私は“仕事”に向かった。この世でただ一つかもしれない、自分に役目を与えてくれる存在、柴犬のハナを散歩に行かせてあげることだ。ハナは私が中学生の時から日常にいる。齢はもうすぐ16歳だ。いつものように首輪とリードを手に持ち、ハナの所へ向かった。 「ハナ、散歩行くよ」私はこの日初めて言葉を話した。 「ハナ、ハナ、ハナ、こっちへおいで」  私は首輪とリードを振りながら、ハナの頭の上まで近づいた。 「おい、ハナ、お前の大好きなお散歩だぞ」  ハナは伏せのまま起き上がろうとしなかった。私の方にちらりと目線を上げるが、直ぐに正面に戻してしまう。今朝与えられたフードがそのまま残り、乾燥していた。  私には、様子がおかしいことがすぐにわかった。 「ハナ、どうしたんだよ?どっか痛いん?」  ハナは答えない。 「ハナ、教えてくれなきゃ分かんないよ!」久しぶりの大きめな声だった。  私は、言い表せない恐怖感を意識した。カーテンの隙間から覗いていたものとは、比べものにならなかった。胸の奥底から沸き上がり、溢れそうになるのを、反射的に理性が蓋をしようとした。  でも、無理だ。  溢れ出たものは、私の胸の中を冷たくした。私は自分がほとんど呼吸していないことに気が付いた。どれくらいその状態だったかは覚えていなかった。それから、私の寝飽きた脳がようやく仕事をし始めた。
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