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「おはよう、こんなに早く大丈夫?」
「そうなんだ、今日は委員会の仕事があるからね」
口から出る沢山の嘘と、浮かんでは消える数々の感情の合間を縫って、歩人は『楽人』としての対応を貫く。
「あまり無理をしてはダメよ?」
「うん、わかってる。大丈夫だから」
もう一度大丈夫と繰り返せば、母は少しだけ笑みを浮かべた。
母が自分の事を『楽人』と呼べば、すぐ隣にその存在を感じることが出来る。
――楽人を感じられるならそれでいい。
例え自分がいなくても、楽人がいるならそれでいいのだ。
「じゃあ、いってきます」
「気をつけていってらっしゃい」
まだ何か言いたげな母に背を向けて扉を開けた。
いつも通りの朝――。
気付かれぬようにいくら気を付けても、結局『楽人』として送り出されてしまう、朝。
それは去年の秋のある日から始まった。
しかし母を責める気持ちはない。
あるのはそれとは別の感情で、それが理由で母親との接触は極力避けているのが現状。
いくら一卵性の双子とは言え、そっくりなのは容姿ばかりで内面的な部分はそれほど似ていないという自覚があるのだ。
つまらないボロを出すのが嫌で、今日も歩人は足早に家を後にした。
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