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月明かり。
海は凪ぎ、さざめきは鼓動と重なり消えていく。
日浦の海に砂はない。あるのは、ごつごつと厳つい岩だけだ。
その一つに腰をかけ、海月はじっと待っていた。
ーー満月の夜、波音の合間に聞こえてくるもの、それは人魚のすすり泣き。人間になりたい、月が輝く夜に人魚は泣いて、日の出と共に去って行くのでした。
日浦に伝わる、古いお話。
海浜公園の石碑にも記された、有名な物語だ。
けれど、この物語にはいろいろな派生形があった。
それらは、なぜ人魚が泣いているのか、なぜ満月の夜にやってくるのか、その理由をさまざまに説明している。
曰く、『人魚は人間に恋してしまい、人間になりたくて泣いているのだ』とか、
曰く、『人魚は、ある満月の夜、魔女に姿を変えられてしまった人間であり、だから人里が恋しくて泣いているのだ』など。
けれど、その中でも海月が好きなのは、こんな話だった。
ーー人魚は人間になりたくて、日浦の浜までやってくる。彼女がすすり泣くのは、人間を呼び寄せるため。なぜなら満月の力は、泣き声に引き寄せられた人間を人魚にし、彼女を人間にしてくれるからであるーー
夏の終わり、足を浸した海水は少し冷たかった。
これがもう少し後、秋にもなれば、あっという間に凍えてしまうだろう。照らし出される白いふくらはぎも、もっと白く見えるに違いない。
波の色も暗く冷たく、とても触れようだなんて思わないはずだ。
海月は目を閉じ、耳を澄ませた。
まだ人魚のすすり泣きは聞こえない。彼女はまだやってこない。海月の足と、人魚の半身を交換しようと言ってはくれない。
海月は、ずっとこの岩の上で待っているというのに。
波がさざめいている。月の光が踊っている。
待ち人を待ちわびて、彼女はじっと彼方を見た。
一月前、海月は白線で区切られた赤いレーンの上にいた。
真夏の陸上競技場。
地面からは陽炎が立ち上り、首筋を汗が流れていく。
中学三年生、最後の試合。最後の百メートル。
何度も走ったその距離が、次の十数秒で終わってしまう。あと一度、ピストルの音を聞けば、そのあとは一瞬だ。
海月は風になり、走る。
その間のことは、何も覚えていない。
なぜなら、風は考えない。ただ速く、透明だ。
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