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だから、次に海月が知るのは、速度がなくなり、風ではなくなってしまった瞬間だ。
そうして、初めて彼女は人間に戻る。そのさらに先へ行ってしまった、風の後ろ姿を見る。それから思うのだ。
ああ、私は人間だった、と。どこまでも速く飛んでいけないのだ、と。
それは深い夢から覚めた瞬間に似ている。
夢の中では羽根のようだった手足が重くなり、その夢を羨むような感覚を覚える瞬間と、よく似ている。
だからといって、海月は現実が嫌いなわけではない。
現実があるからこそ、風になった瞬間がわかる。その喜びは計り知れないものだから。
スターターの合図に、海月は集中した。
家族や友人が応援に来ているはずだが、その声は聞こえない。
きっと、今日はいい風になれる。
そんな予感と共に、海月はピストルの音で飛び出した。
形容しがたい痛みが訪れたのは、その直後だった。
海月はレーンに倒れ、風の後ろ姿を見送った。
アキレス腱断裂。
医者が告げたのは、聞き覚えのある一言だった。
中学一年のとき、三年生の先輩が泣きながら告げた診断であることを思い出したのは、それからすぐだった。
先輩は誰よりも速かった。百メートルで県の記録を持っていたのだから、当然だろう。
そんな先輩が泣いていた。
彼女が怪我をしたのは、練習中だった。もうすぐ開催される大きな大会に出場する予定だったのだ。
けれど、それはだめになった。
大会のベンチで、先輩は代走の友人が走るのを見つめていた。
泣いてはいなかったが、だからこそ、その表情はより悲愴だった。運動しなくなったというのに、こけた頬が痛々しかった。
先輩はそのあと、ひっそりと部活をやめた。
しばらくは松葉杖をついたその姿を見かけたが、それ以降は一切見なくなった。
彼女がどうしたのか、尋ねれば誰かが教えてくれたのだろうが、海月はそれをしなかった。
風になれなくなった先輩の消息は不明だった。もしかしたら転校したのかもしれない、海月は思った。
彼女自身が変わってしまったというのに、周りは何も変わらないことがどれだけ辛いのか、自分には分からないのだろうと思ったのだ。
『走れなくなりますか』
白衣の医者が何事かカルテに書き付けている沈黙に、海月は聞いた。
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