人魚伝説

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『歩けるようにはなるよ』  カルテから目を離そうともせず、医者は答えた。まるで的外れな答えだった。  しかし、海月のことを何も知らない医者に、これ以上の答えを求めること自体が間違っていた。 『短距離走は無理だけど、少しくらいの運動ならできるようにもなるよ』  不思議と譲歩の匂いを感じさせて、医者が続けた。 『人生長いんだから、こんなことで落ち込んでちゃだめだよ。大人になったら走ることなんかないんだし』 『はい』  海月は答えた。  自分より年上の医者が言うのだから、きっとそうなのだろうと思った。  ーー大人になったら、走ることなんかない。  慣れない松葉杖で廊下に出ると、海月は医者に言葉を繰り返してみた。ふと、あたりを見回した。  そこは病院だから、当たり前なのかも知れない。  けれど、確かに走っている大人はいなかった。  会計を済ませると、海月は母親に付き添われて車に乗った。流れる景色を窓から見つめた。  医者の言ったとおり、走っている大人などいなかった。 『……走る大人っている?』  小さく聞くと、 『え? ジョギングとか、マラソンとかする人はいるんじゃない?』  ハンドルを握った母親はそう答えた。 『ジョギングやマラソン……』  海月はつぶやいた。  それは彼女の思う「走る」ではなかった。  健康のためや、ただ長い距離を行くことは、風になるという思想とはかけ離れていた。  赤信号に車が止まる。横断歩道を、小学生が走っていく。  楽しそうになりふり構わず、ただ前だけを見つめて、走っていく。  信号が青になる。車が静かに動き出す。頬を涙が伝って落ちた。  大人は走らない。医者の言葉は正しいと思った。  走るという動作は、子供だけがなし得るものだった。  先へ、先へ、ただひたすらに、それだけに集中することは、きっと大人には出来ない。  大人はいろいろなことを考えてしまうから。彼らは、走ることだけに夢中になることはできないから。  だって、彼らは「走る」間にも、ペース配分を考え、あまつさえ音楽を聴いているじゃないか。  母親に気づかれないように、海月は静かに涙を流した。  海月はもう走ることが出来なかった。  彼女は泣いた。  走りたくて泣いた。  彼女はまだ少女だからこそ、その時代を最後まで走り抜けていきたかったのであった。
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