人魚伝説

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 夜、こっそりと家を抜け出し、海に来てからどれくらい経ったのだろう。  波の音に全身をゆだねながら、海月はぼんやりと考えた。  部屋着のTシャツに半ズボンで、携帯は持ってこなかった。  必要ない、そう思ったのだ。  彼女は人魚を待っている。  伝説通り、人魚が現れ、足を交換することが出来たら、それはただのゴミになる。  ーー海の中では、走れるだろうか。  深い底を見通すように、海月は思った。  もちろん、陸と同じようにはいかないだろう。空気もないそこでは、風になることも出来ないだろう。  しかし、どの道、もう走ることは出来ないのだ。例え人魚姫のように、海の藻屑となる運命が待っていたとしても、それを受け入れる覚悟はあった。  未だ人魚のすすり泣きは聞こえない。  海月は岩場に横になった。ごつごつとした感触ですぐに体中が痛くなった。  けれど、あのときの足の痛みに比べれば、こんなものはなんでもない。  仰向けになって見上げる空は真っ暗で、月の光だけが清かに降り注いだ。  この広い世界で、彼女は自分がたった一人きりの人間であるように思えた。  目を閉じると、その感覚は寂しさとなって全身を包み込んだ。  何かが海から這い出るような音を聞いたのは、それからしばらく後のことだった。  ーー人魚?  恐る恐るそちらを振り返る。  すると、綺麗な白い背中が見えた。  その背中に張りついた一束の長い髪は、たったいま海から上がったように濡れそぼっていて、毛先から滴がしたたっている。  そして、その背中と腰の境目。  あっ、思わず声を上げそうになり、海月は慌てて口を閉じた。  そこに見えたのは、海の色にきらめく鱗だった。  あるものは深緑に、あるものは青に、あるものは水色に、微かに色の違う鱗は、それらすべてで海の色を表しているのだった。 「あ、あの……」  海月は小声で呼びかけた。  声に人魚が驚き、海の中へ消えてしまいはしないかと、それだけを心配したのだった。 「……なあに」  すると、人魚は答えた。  泣いているのだろうか、声は震え、顔はこちらを振り向かないままだった。 「あの、私……」  そう言いかけて、海月は次の言葉を探した。
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