人魚伝説

7/9

2人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 黙っていると、人魚はぽつり、と語り始めた。 「私はね、海で泳ぐのが好きだったの。海藻のベッドで眠ったり、北極から来たクジラに話を聞いたり、綺麗な貝を集めたり……」  人魚の声は、まるで月の子守歌のようだった。聞いていると、身体の力が抜けてきて、そのまま眠ってしまいそうだった。  その声が悲しみを帯びた。 「けどね、私はなくしてしまったの」 「なくしてしまったって……何を?」  海月が聞き返す。  人魚は辛そうに答えた。 「……歌を」 「歌?」  意味が分からずに、海月は繰り返した。 「歌をなくすってどういうこと? 歌なんて歌えばいいんじゃないの?」 「違うのよ」  人魚は言った。 「私たちにとって、歌はとても大切なの。美しい声は赤い珊瑚よりも価値がある。そういうものなの」 「わからない」  海月は言った。 「だって、あなたはこうして話せているじゃない。それなら、歌も歌えるんじゃないの?」 「歌えないの」  人魚は首を振った。 「もう歌えなくなってしまったの」  そう言って、声を震わせ始めた。  人魚のすすり泣き。これがきっとそうなのだろう。 「歌の歌えない人魚なんて、生きている意味がないのよ。だから、私は陸に上がるの」 「陸に上がって……どうするの?」 「歌をなくした人魚は、陸で暮らすものだと、そう聞いたわ。だから、私も陸に上がるの。陸で、歌を忘れて生きていくの」 「歌を忘れて?」 「そう、歌を忘れて」  沈黙が生まれると、波の音が際立った。  月の光が、背中合わせの二人を照らし出し、その悲しみを露わにさせた。 「私は……風になれなくなったの」  気がつくと、海月はそんなことを口にしていた。 「風?」  海月がそうだったように、人魚も言葉を繰り返した。それから夜空を仰ぐようにした。 「風、海を優しく揺らすものね。時折激しく荒れ狂って、海に白波を立たせるものね」 「そう、鳥が乗っていく、あの風」  海月も暗い夜空を仰いだ。  夜空に鳥は見えなかった。  彼らは夜をどこで過ごすのだろう。  穏やかな波間に揺られているのか、それとも岩場のどこかにいるのか、それともーー。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加