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黙っていると、人魚はぽつり、と語り始めた。
「私はね、海で泳ぐのが好きだったの。海藻のベッドで眠ったり、北極から来たクジラに話を聞いたり、綺麗な貝を集めたり……」
人魚の声は、まるで月の子守歌のようだった。聞いていると、身体の力が抜けてきて、そのまま眠ってしまいそうだった。
その声が悲しみを帯びた。
「けどね、私はなくしてしまったの」
「なくしてしまったって……何を?」
海月が聞き返す。
人魚は辛そうに答えた。
「……歌を」
「歌?」
意味が分からずに、海月は繰り返した。
「歌をなくすってどういうこと? 歌なんて歌えばいいんじゃないの?」
「違うのよ」
人魚は言った。
「私たちにとって、歌はとても大切なの。美しい声は赤い珊瑚よりも価値がある。そういうものなの」
「わからない」
海月は言った。
「だって、あなたはこうして話せているじゃない。それなら、歌も歌えるんじゃないの?」
「歌えないの」
人魚は首を振った。
「もう歌えなくなってしまったの」
そう言って、声を震わせ始めた。
人魚のすすり泣き。これがきっとそうなのだろう。
「歌の歌えない人魚なんて、生きている意味がないのよ。だから、私は陸に上がるの」
「陸に上がって……どうするの?」
「歌をなくした人魚は、陸で暮らすものだと、そう聞いたわ。だから、私も陸に上がるの。陸で、歌を忘れて生きていくの」
「歌を忘れて?」
「そう、歌を忘れて」
沈黙が生まれると、波の音が際立った。
月の光が、背中合わせの二人を照らし出し、その悲しみを露わにさせた。
「私は……風になれなくなったの」
気がつくと、海月はそんなことを口にしていた。
「風?」
海月がそうだったように、人魚も言葉を繰り返した。それから夜空を仰ぐようにした。
「風、海を優しく揺らすものね。時折激しく荒れ狂って、海に白波を立たせるものね」
「そう、鳥が乗っていく、あの風」
海月も暗い夜空を仰いだ。
夜空に鳥は見えなかった。
彼らは夜をどこで過ごすのだろう。
穏やかな波間に揺られているのか、それとも岩場のどこかにいるのか、それともーー。
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