人魚伝説

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「透明で、速くて、決して止まらない風。私は風だったの。だけど、もう違う」 「違う?」 「うん。……足の怪我で、走れなくなっちゃったの。だから、もうーー」  ーー風にはなれない。  枯れたはずの涙が盛り上がり、月の光を滲ませた。  人魚のなくしたものと、彼女が失ったものは、とてもよく似ていると海月は思った。  だからこそ、二人は今夜出会ったのだろう。そうも思った。  一方は陸では生きていけず、もう一方は海では生きていけない。  だったら、逃げてしまえばいい。  足のいらない場所へ。歌のない場所へ。  足と尾びれを交換し、それぞれに違う場所へ。  海月はとうとう口を開いた。 「ねえ、私たち、生きる場所を交換できるよね。あなたは陸に、私は海に、足と尾びれを交換して」  背を向けたままの人魚は、けれど微かに笑ったようだった。 「できるわ」 「じゃあーー」 「でも、本当にいいの?」  立ち上がりかけた海月を制するように、人魚は言った。 「本当に? 後悔しない?」 「後悔なんてするくらいなら、ここに来てない」  海月は言った。 「それとも、あなたは後悔してるの?」 「……いいえ」  人魚は言った。それから、長い髪をかき上げた。 「それなら、振り返るわよ。振り返ったら、あなたの足は私のもの、私の尾びれはあなたのものになる」 「いいよ」  海月はごくりと唾を飲み込んだ。  無意識に、手が足の傷にそっと触れた。  まだ傷跡の痛々しいそこは、肉が奇妙に盛り上がり、触るとでこぼことした感覚を指に伝えた。  この足は、いまから人魚のものになる。  そう思ったとき、人魚がゆっくりと海月を振り返った。 「あっ」  その顔を見て、海月は驚いた。  長い髪の張りついた人魚の顔。  彼女は、怪我をしていなくなったあの先輩の顔をしていたのだ。      *  びくり、痙攣するように体が震え、海月は目を開けた。  そこは変わらぬ岩場の上で、満ちた海水が彼女の背中を濡らしていた。  空の満月が、記憶よりも大きく傾いている。  振り向いた人魚の顔が夜空に映った。  いなくなってしまった先輩の顔をした、あの人魚。その姿はどこにも見えない。  ーー足。  海月は呼吸を止め、はっと自分の足を見下ろした。  あの海色の鱗に覆われた人魚の半身。
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