ラプンツェルの長い髪

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 旅館に着くなり、私は部屋に閉じこもり、缶ビールを再び開ける。弘文との喧嘩の原因は、不妊治療のあいだに起きた彼の浮気だ。私は治療の末に、彼との子を身ごもることができたが、流産をしてしまった。私が流産をして、まるでタイミングを計っていたように、彼が浮気をしていたことを告白され、今更なにを言うのかと私は驚いた。彼の浮気は知っていたから。彼は謝罪し一回、寝ただけのことだから、と私に許しを乞うた。そして一回ということが嘘だということを、私は知っていた。彼のシャツの下に着ていたインナーからは、甘い香りが立ちのぼり、きっと女性用の香水だろう、と私は思い知らされた。妊娠をして匂いに敏感な、つわりが激しいときだ。そうして初めて彼の浮気がわかったとき、私はなかったことにしようと心に決めた。私は騒ぎ立てることも、責めることも、しない、と。私は冷静にシャツの汚れた襟首の部分に洗剤をつけて手揉み洗いをして、それを 他の洗濯物と一緒に洗濯機に入れた。彼が黙っていれば、浮気などなかったことにできると私は信じていた。不妊という困難をともに克服しようとする仲のよい夫婦。そんな理想的なカップルを演じようと、私は頑張り、彼は疲労していた。体面だけを気にしていた、と今の私にはわかる。それでも体面だけでも保ちたかった。それしか私にはなかったから。しかし弘文の告白によって、彼と私を繋いでいた一本の糸は切れてしまった。私はなぜ隠しておけなかったのか、告白することによって私に何をしてほしかったのか、と彼を罵り、悪態をついた。そして残された私の彼への感情は冷めて、自虐的な引け目だけが残った。もっと幸福になれると思ったのに、皮肉なものだ。私たちはより一層、幸せになるための行動が不幸を招いた。     
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